心のたすかりを願って – 道を楽しむ5
まさか裁判の法廷に立つとは思いもしなかった。二十数年前、大教会青年をしていたときの出来事である。
あの夜、神殿の宿直だった私は、神殿お守所で当番の役員先生と休んでいた。草木も眠る丑三つ時、物音で目が覚めた。恐る恐る殿内をのぞくと、奉賽箱を物色している人影が。「ど、泥棒だ!」。隣室の役員先生を起こし、点灯と同時に声を張り上げながら飛び込んだ。身柄確保! 間もなく警官が到着し、私は第一発見者として事情聴取のため警察署まで同行することになった。
聴取は明け方までかかった。周囲から労いの言葉をかけられ、ちょっとしたヒーロー気分でいたところ、大教会長の奥様から「見るもいんねん、聞くもいんねん、世話取りするはなおのこと。しっかり思案させてもらいなさい」とお諭しいただく。実は聴取の間、ずっと心がモヤモヤしていた。果たして、警察を呼んで良かったのかと。
教祖が月日のやしろとなられる前、中山家に米泥棒が入った際に、教祖は「貧に迫っての事であろう。その心が可哀想や」と労わりの言葉をかけたうえ、米までお与えになった。時が経つにつれ、私は後悔の念にさいなまれていった。
数カ月後、件の泥棒の余罪が多かったことから裁判となった。私も証人の一人として法廷の証言台に立った。ドラマの中でしか見たことのない場所。終始、緊張しての答弁だった。
裁判の帰り際、日当として7,865円を手渡された。思いがけない臨時収入だったが、申し訳なくて、とても使う気になれない。大教会へ戻り、日当のすべてをのし袋に入れ、泥棒T氏の名前を書いて奉賽箱へお供えした。教祖のお心には程遠いわが心をお詫びしつつ、いつの日か、T氏の心が、天理の教えに目覚めることを心から願った。
以来、20年の月日が経ち、出所したT氏が再びやって来た。しかし、またしても夜中に……。私のお詫びが足りなかったのか、かつての後悔の念がよみがえった。全く申し訳ない限りだ。
今回は、大教会青年がしっかり丹精してくれた。時間がかかっても一歩一歩、心のたすかりに向かうことを願うばかりだ。
中田祥浩 花巻分教会長