心のふしんを急がれ――中南の門屋 – おやのぬくみ
中山家の表通常門、通称「中南の門屋」――。
明治8(1875)年、教祖は、つとめ場所の北の上段の間から、ここへお移りになった。以来、16年に御休息所が竣工するまでの間、門屋の西側の10畳の部屋をお居間として、寄り来る人々に日夜、親神様の思召を伝えられた。
このころ教祖は、平素、南側の窓の下にある台にお座りになっていた。夜も同様に、この上でお休みになったとされる。
参拝人がないとき、教祖は、お居間に一人でおられるのが常であり、よく紙の皺を伸ばしたり、御供を
入れる袋を折ったりなされていた。中山正善・二代真柱様は『ひとことはなし その二』の中で、おそらく「おふでさき」なども、この台の上でお書きになったものと思われる、と述べられている。
台の高さは、およそ2尺5寸(約75センチ)。当時は西側に階段があり、教祖はそこから上り下りしておられたという。台の下は物入れになっており、先人の記録によれば、ここには教祖の衣類や食器、日常の手道具などが納められていた。信者が子供連れでお伺いすると、教祖はよく、そこからお菓子などを出して子供に下されたといわれる。
そもそも門屋の建築は、明治7年ご執筆の「おふでさき」第三号冒頭のお歌に示されるように、親神様の神意に基づいている。つとめ場所と同様、熱心な信者が寄進をし、手間は飯降伊蔵が引き受けて普請は進められた。
これと併行して、教祖は積極的に“高山布教”に掛かられている。官憲や神職の迫害干渉が日増しに強まるなか、形の普請とともに、人々の心のふしんを急がれたのである。門屋が出来上がるまでの間、教祖は赤衣を召され、身上たすけのさづけを初めてお渡しになった。そして、かんろだいのぢば定めも行われた。中南の門屋は、まさに世界たすけを推し進めるための建物であったといえよう。
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門屋の外には当時、東西に村道と小川が通い、その南側は竹藪や田んぼ続きになっていた。教祖は、お居間の窓からその景色をご覧になって、「今に、ここら辺り一面に、家が建て詰むのやで。奈良、初瀬七里の間は家が建て続き、一里四方は宿屋で詰まる程に。屋敷の中は、八町四方と成るのやで」と仰せられたという。
門屋があったのは、現在の南礼拝場のどの辺りであろうか。正面の結界前に座り、往時の情景を頭に思い描くと、教祖のお言葉が一段と味わい深く感じられる。