いまこそ「藤野先生」を – 手嶋龍一のグローバルアイ8
中国にあっては時々の権力者が歴史を綴ってきた。現代とて例外ではない。毛沢東は大長征を経て延安に根拠地を築き、ついに抗日戦に勝利した。中国共産党は1945年に「歴史決議」を採択し、毛沢東路線の正しさを宣言した。だが、鄧小平は1981年に新たな「歴史決議」の筆を執り、毛沢東が引き起こした文化大革命の誤りを糾弾して、改革開放に舵を切った。習近平政権がこのほど採択した「歴史決議」は、中国共産党の100年に及ぶ支配を「成功の歴史」と総括し、3期目を迎える習近平体制の正統性を訴えている。
「習近平の中国」は、今後も海洋・宇宙強国を目指し、その存在感を増していくのだろう。台湾を「一国二制度」のもとに併合しようと動き、台湾海峡のうねりは一段と高まっていく。だが、21世紀の台湾海峡の危機は、必ずしも強大な軍事力を発動して起きるとは限らない。インターネット空間を舞台にしたサイバー戦や人々を恐怖に陥れる心理戦を組み合わせて新たな台湾侵攻が企てられるかもしれない。
日本はそんな巨大な隣国といかにつきあい、対峙していくべきなのだろうか。いま台湾に有事が勃発すればその荒波は直ちに日本列島に及ぶ。台湾有事は日本有事でもある。それゆえ、最後の拠り所として軍事力による備えを怠ってはならない。だが、中国の民衆も含めて戦争を望む者などいないはずだ。民主主義を定着させた台湾が武力で併合される事態をいまの世界は到底容認しないだろう。東アジアのリーダーとしてニッポンは台湾有事を未然に防ぐ責務を負っている。軍事力を誇示する「習近平の中国」に対して、われわれは道義的な高みに立つことの大切さを忘れてはならない。一見して迂遠に見えるこうした姿勢を軽んじるべきではない。近代のニッポンにはひとりの偉大な先達がいたではないか。あの「藤野先生」(※)である。仙台の医学校の教授は、中国からの留学生、魯迅に真心を込めて接し、のちに「中国社会の医者」となった魯迅の心の師となった。たったひとりの「藤野先生」は、100発のミサイルにまさるといっていい。
※藤野厳九郎・仙台医学専門学校解剖学教授