第34話 まがい物の夜 – ふたり
鉛色の海が一面に広がっていた。いまにも雨が降り出しそうな天気だが、波は穏やかで海水は温かい。それに少々雨が降ったところで、水のなかでは関係ない。子どもたちは早く海に入りたくてうずうずしている。他の子どもたちはあんなに楽しそうに泳いでいるじゃないか。
よろしい、レッスンをはじめよう。ひととおりの注意事項を伝えると、カンは子どもたちを海に導いた。異変が起こったのは、海に入ってから三十分ほど経ったころだ。一人の男が片方の腕で水を掻き、なんとか態勢を立て直そうとしてもがいていた。水面から突き出した顔を苦しそうにしかめている。歳は六十歳くらいだろうか。きっと足でも攣ったのだろう、とまわりの者たちは思った。そのうち男は沈みはじめた。
意識を失った男を抱えて、カンは岸をめざした。幸いそれほどの距離ではない。途中からはビョーンさんが手を貸してくれた。元理学療法士の彼は男を砂浜に横たえて反応や呼吸の有無を確認した。そのあいだにカンは携帯電話で救急車を呼んだ。
駆けつけた隊員の一人に、カンが事故の様子を説明した。どうやら男は水のなかで脳梗塞か脳出血かを起こしたらしい。もう一人の隊員は車の無線で連絡をとっている。それから二人は手際よく担架を組み立て、男を車のなかに運び入れた。
男の娘らしい女性が同行することになった。水着の上に丈の長いTシャツを着ている。病院に行く恰好としてはあまりふさわしいとは言えないが、緊急事態だからしょうがない。小学生くらいの二人の男の子がいた。きっと四人で海水浴に来ていたのだろう。母親は息子たちに事情を説明して、おばあちゃんのところへ戻るように言った。
「助かるといいな」。走り去っていく救急車を見送りながらビョーンさんが呟いた。
心配そうに集まってきた子どもたちは、みんな少なからずショックを受けている様子だった。天気も崩れはじめているので、カンは残りのレッスンを陸の上で行うことにした。
子どもたちを屋内へ誘導しようとしたとき、彼は自分の名前が呼ばれるのを聞いた。振り向くと一人の若い女性が立っている。わたしにはそれが誰なのか、すぐにはわからなかった。
「救急車のサイレンが聞こえたので来てみたの」
ツツ。小学生のころ、浜辺の砂に埋まって溺れかけた少女。二人はしばらく無言で向かい合っていた。海の上は急速に暗くなりつつある。まがい物の夜がやって来ようとしていた。
「あとで少し話せる?」
カンは頷いて、身体が空く時間を伝えた。霧がかかった海の向こうで、稲妻が音もなく光った。多くの海水浴客たちは、足早に引き揚げようとしていた。
作/片山恭一 画/リン