天理時報オンライン

感謝がもたらす心豊かな生活 – こころに吹く風の記


ある日のお昼どき、家族と回転寿司のお店に入りました。はす向かいのテーブルには3世代とおぼしき家族が陣取り、まだ小さい子供がテーブルではしゃいでいます。自分の子育て道中を思い出して、微笑ましく眺めていました。

そのうちに、子供が勢いよく通路を走り始めました。通路の側に座っていたのは、祖母と思われる年配の女性。「危ないよ」と声をかけながら、そっとテーブルの角に自分の手のひらを当てました。案の定、子供は、そのおばあちゃんの手の甲に頭をぶつけてしまいました。最初はびっくりしていましたが、それが契機となって少しおとなしくなり、テーブルに座りました。

「すみません」と、おばあちゃんに声をかけた若い女性はお母さんでしょう。

「大丈夫、大丈夫」。おばあちゃんは何事もなかったように手の甲を見つめて、すぐに顔を上げ、目を細めて孫を見つめていました。

私は、このよくありがちな光景を懐かしく眺めていました。おばあちゃんの行動は自分にも覚えがありましたから。

注文したお寿司が届くまでの、ほんの少しの時間、私の想像はこのシーンを超えて、連想のおもむくままに広がっていきました。

おそらく、このおばあちゃんは孫が大きくなってからも、「〇年〇月〇日、アナタが頭にコブを作らなかったのは、私がカバーしてあげたからよ」などとは言わないでしょう。また、おばあちゃんの記憶にも、もちろん孫の記憶にも、このことは残らないかもしれません。それほど些細なことです。しかし、孫の頭部を確実に怪我から守ったのは、おばあちゃんの優しさでした。

私は思いました。これと似たようなことが、神様と人間との間に起こっているのではないか。神様は私たち子供が怪我しないよう、先回り先回りして守ってくださっているのではないか。そしてそれは、決して語られることのない無償の愛情ではないかと。

「神様は大難を小難に、小難を無難に守ってくださっている」とよく言います。いろんな宗教に似たような教えがあります。でも実際、このことは人間には分かりません。特に「小難を無難」に至っては、全く分かりようがありません。無難、つまり何も起こらなかったのですから。

しかし信仰を持つ人は、難があるたびに、「ああ、大難を小難にしてくださった。きっと小難も無難に変えてくださっているのだろう」と、こう思いを変えてきたのです。

「そんなことがあるものか。すべては偶然だ、起こるべくして起こるのだ」

普通は、そう思うでしょう。もちろん、どう考えようと個人の自由ですから、それをとやかく言うつもりはありません。

でも、一つだけ言えることがあります。「神様に守っていただいている」と思う人の心には、その瞬間、感謝の心が芽生えているということです。そして、その感謝は心に優しさを生みます。

先ほどのシーンを思い出してください。

「すみません」と声をかけたお母さんは、おばあちゃんの優しさにふれ、おばあちゃんに感謝します。そして、次に同じような場面があれば、自らもそうするでしょう。そしていつか、自分がおばあちゃんになったとき、自分の孫に、自然にそういう行動を取るはずです。

絵・おけむらはるえ

こうして恩は人から人へ送られていきます。誰かに守られている。そう思うことで生まれる感謝が、思いやりにつながる。その思いやりが別の思いやりを生みだす。なんと麗しい心の連鎖でしょう。

これが、信仰が育む風景、感謝がもたらす心豊かな生活のありがたさだと思います。

自分のテーブルのブザーが鳴りました。ふと我に返ると、レールに乗ったお寿司が音もなく横に止まりました。私の孫がうれしそうにお皿を取り、満面の笑みで食べ始めました。

それを見ていた私も幸せな気分になりました。


茶木谷吉信(1960年生まれ・天理教正代分教会長・教誨師・玉名市元教育委員)