主旋律をゆずる先に – 成人へのビジョン 46
2026・6/17号を見る
【AI音声対象記事】
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映画『おおかみこどもの雨と雪』や、朝の連続テレビ小説などで知られる高木正勝さんの音楽を、最近よく聴いています。
学生のころは、好きな曲を大音量でかけては、気分を上げていました。でも、いまの私が耳にしたいのは、意識にのぼらず自然と心が整う、そんな音楽。高木さんの音楽には、すべてを包み込むような優しさがあります。
特に好きなのは、山奥の自宅で窓を開け放ち、その瞬間に鳴る自然の音を「主旋律」とし、自らのピアノをそっと添えるように奏でる演奏です。
氏は、良い作品ができるときは、自分がつくるというより、大きな流れの中でつくらされているような感覚があると言います。無理につくろうとすると行き詰まる。むしろ、向こうから現れてきたものを表に出す、その手助けをしたいのだと。
「自分」を表現しようとする力みを、そっと手放す。そして、自然が生む音に導かれるようにして鍵盤を鳴らす。すると、個を超えたものが生まれてくる。雨粒や雷鳴、鳥のさえずりにひぐらしの声。それらに寄り添うように流れるピアノ。その音色は、世界を映し出したような、透き通る美を湛えています。
自然の音に主旋律をゆずる。その姿勢にふれたとき、私は信仰のことを思わずにはいられませんでした。信仰とは何か特別な力を身につけることではない。むしろ、心のほこりを払い、心を澄ませていく営み、そう思います。
『天理教教典』第一章「おやさま」には、「心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映る」とあります。澄んだ水面が天をそのままに映し出すように、澄んだ心に、親神様の理が映る。我を払うことで、見えるまま、聞こえるままの世界に変わりはなくとも、心に映る世界が変わっていく。
自然の音が主旋律となるように、私たちの人生もまた、「自分」という囚われを一歩離れると、そこにはすべてを包む親心が広がっていることに気づきます。それは、「我」が主役のときには感じることができなかった世界。自分の意思や力がすべてではない。“生かされて生きている”という地平です。
特別な音を鳴らそうと力む必要はありません。山奥にこもることなく、気忙しい日々のただなかで、心を澄ます。きっとそれは、親神様の理が真っ直ぐに流れてくるための、大切な準備なのです。
可児義孝・河西分教会長










