天理時報2021年3月14日号1面
特別企画新風景をたずねて岡田彦天理大正学教授第二十二話・おぢばから吉野町、五條市久留野町へ険しい峠道を踏みしめて秀司様の心に思いを致す教祖が現身をもってお働きになっていた時代、官憲の迫害・干渉が日増しに激しくなるなか、中山秀司様は、教祖の御身の安全と人々の無事を願われ、艱難苦労の中も常に矢面に立たれた。「新〝ひながたの風景〟をたずねて」第二十二話では、秀司様が官憲の干渉を避けるために赴かれた金剛山地福寺への道を歩いた。先日、わが家の小さな畑の土手にふきのとうを見つけました。早速、新芽を五つほど摘んで持ち帰り、酢味噌あえにして頂きました。ほろ苦さと独特の香りが春の訪れを告げています。いつもより少し早く、春が近づいてきました。教祖の長男・中山秀司様は、明治14(1881)年4月に出直されました。今から10年前のことです。言うまでもないことですが、秀司様は末女こかん様と共に、月日のやしろになられた教祖のお側にあって、生涯この道の発展のうえに尽くされた方です。今回は、秀司様の足跡を偲んで、吉野から金剛山への道を歩きました。往時の峠道をたどって明治13年9月、二転三転する明治政府の宗教政策のもと、次第に官憲の圧迫が厳しさを増していた時期のことです。秀司様は、教祖の御身の安全と人々の無事を図るため、なんとか活動の認可を得ようと手を尽くしていました。乙木村の山本吉次郎らの伝手を得、金剛山地福寺へ願い出て、仏式教会を設置する計画を進めます。これに対して、教祖は「そんな事すれば、親神は退く」と仰せられましたが、教祖の留置投獄という事態を避けるために、秀司様は「たとい我が身はどうなっても」との思いから、一命を賭して地福寺へ向かいます。このとき、足に不安のある方を一人で行かせるのは忍びないと、自ら進んで同行したのは岡田与之助(のちの宮森与三郎)でした。『稿本天理教教祖伝』には、このときの行程が次のように記されています。両名は芋峠(通称芋蒸峠)を越えて吉野へ出、金剛山の麓にある久留野の地福寺へと赴いた。秀司は、平地は人力車に乗り、山道は歩いた。峠では随分困り、腰の矢立さえも重く、抜いて岡田に渡した程であった。こうして地福寺との連絡をつけて、帰って来たのは出発以来三日目であった。まず、桜井から明日香方面へ向かった二人は、当時は吉野へ行く道として往来が盛んであった芋ケ峠を越える道を進みます。峠の入り口くらいまでは、人力車に乗ることができました。しかし、栢森から先の峠道は、かなりの急斜面が続くために、自力で歩くしか選択肢はありません。現在は、かつての峠道が「古道芋峠」として整備されており、各所に案内板などが設置されています。栢森から古道に入ると、かなり急な坂道(小峠)が続き、中腹くらいで現在の車道と合流します。ここに役小角(役行者)の古い石像があり、さらに山頂へと向かう急勾配の道が続きます。この険しい山道を秀司様が独力で登るのは、簡単ではなかったはずです。教祖伝には「峠では随分困り、腰の矢立さえも重く、抜いて岡田に渡した程であった」と記されています。取材当日は、古道の案内板に従って、かつての茶屋跡を通り過ぎ、山頂にあったとされる神社の付近まで登って、往時の峠道の様子に思いを馳せました。ここ数年の台風や大雨の影響か、しばしば倒木に道が塞がれており、雨水に削られて道幅が狭くなった危険な場所が続きます。それでもトレッキングができるように整備された現在の古道は、かつての峠道よりは、かなり歩きやすくなっているはずです。この道は天武天皇や持統天皇の時代から使われていた吉野への参詣道であり、大正時代に鉄道が通って、徒歩で往来する人が減るまでは、奈良盆地と吉野をつなぐ主要な道でした。とはいえ、気を抜けば滑り落ちるような険しい山道です。崩れ落ちそうな足場を踏みしめながら、この峠を越えて先に進んだ秀司様の思いの強さを実感します。真実の心を受けとめられ峠を越えて吉野に到着した二人は、一泊して地福寺へ向かいます。吉野川を渡り、宇野峠を越えて地福寺に着き、諸般の連絡をつけた後、3日目にお屋敷へ帰りました。その後、9月2日(陰暦8月18日)には転輪王講社の開筵式が行われます。『稿本天理教教祖伝逸話篇』は、当日の教祖のご様子について次のように伝えています。教祖は、北の上段の間の東の六畳の間へ、赤衣をお召しになったままお出ましなされ、お坐りになって、一寸の間、ニコニコとごらん下されていたが、直ぐお居間へお引き取りになった。かねてから、地福寺への願い出については、「そんな事すれば、親神は退く。」とまで、仰せになっていたのであるが、そのお言葉と、「たとい我が身はどうなっても。」と、一命を賭した秀司の真実とを思い合わせる時、教祖の御様子に、限りない親心の程がしのばれて、無量の感慨に打たれずにはいられない。(73「大護摩」)転輪王講社の設置について、教祖は、極めて厳しい姿勢を示されていました。その一方で、教祖の御身と道の将来を想い、わが身の事情を顧みずに難路を進んだ真実の心を、教祖は温かく受けとめられたような気がします。この1年間、目的地を自由に訪問し、各地を歩き回る取材ができない状況が続きました。今回も実際に歩いたのは古道の峠道だけです。しかし、当時の面影を残す急勾配の道を自らの足で踏みしめてみると、わずか数行の「芋ケ峠」の記述が身に沁みてきます。教祖伝の世界を体感する旅は、ひとまず終わりますが、その意義を再認識する一日になりました。(終)▲栢森の風景。秀司様はこの地で人力車を降り、山道を登られた峠を越えて吉野へ到着した秀司様は、吉野川を渡り、金峯山寺の門前の宿坊に泊まられた急勾配が続く芋ケ峠の古道金剛山地福寺の本堂。建屋は秀司様が訪ねられた当時のままだという教会本部から地福寺までの道のり金峯山寺蔵王堂の仁王門前コラム通称「芋蒸峠」茅ヶ峠は、背中に背負った芋が熱気と汗で蒸せるほど急勾配であることから、「芋蒸峠」とも呼ばれていた。峠を越える山道の険しさから、秀司様は腰に下げていた矢立を、同行の岡田与之助に持たせ、後ろから抱えられるよようりににして登ったという。矢立とは携帯用の筆記具で、筆と墨壺が組み合わさったもの。また、秀司様が地福寺を訪れるのに、わざわざ回り道をして、難路である吉野の峠道を経たのは、金峯山寺が修験道の重要な拠点の一つであったからではなかろうか。矢立おやのことば七ッなにかよろづのたすけあいむねのうちよりしあんせよ「みかぐらうた」※下段「おやのこころ」参照おやのこころ10年前の3月11日、「陽気ぐらし講座」開催のため、豪州の首都キャンベラに滞在していました。講座が終わり、ホテルに戻ってテレビをつけると、東日本大震災が速報されており、衝撃的な津波の映像に言葉を失いました。翌朝、次の会場があるパースへ飛んだ後に、おぢばで勤められるお願いづとめの時間に合わせて、市街を一望できるキングス公園で米国人講師と共に一心におつとめを勤めたことを、いまも鮮明に覚えています。未曾有の大震災に込められたをやの思いとは何だったのか当時の上田嘉太郎表統領は、世のありように対する警告と考えられるとして、難に遭わなかった者もわが事”と受けとめ、たすけの手を差し伸べることが求められると、メッセージを出されました。その後、被災地に多くのたすけの手が差し伸べられました。米軍のトモダチ作戦〟に代表される国家レベルの救援、世界的なアーティストやアスリートの支援、民間レベルでも、医師や看護師、消防士、各種業者、さらに一般人や学生らが被災地へ足を運び、救援活動に尽力した姿は忘れられません。「セッなにかよろづのたすけあいむねのうちよりしあん「せよ」あれから10年。被災地では、いまも息長い支援活動が続けられるなか、世界中で新型コロナウイルス感染拡大という大節をお見せいただいています。このことについて、あらためて〝わが事”としてよく思案し、たすけ合いを実践するようにと、急き込まれているように思えてなりません。(あ)教会本部3月月次祭および春季霊祭の参拝について新型コロナウイルス感染拡大防止の対策として、教会本部の3月月次祭および春季霊祭には、ようぼく・信者の皆様の参拝をお控えいただき、各教会・布教所、自宅などから遥拝をお願いいたします。立教16年3月10日天理教教会本部期の修養科と各講習会などについて3月期に引き続き、4月期も修養科生の受け入れを行います。また、3月27日開講の教人資格講習会と教会長資格検定講習会を実施するとともに、4月6日からの三日講習会Ⅰについても開催いたします。なお、修養科の志願者ならびに各講習会の受講を希望する方は、くれぐれも体調管理につとめていただきますようお願いいたします。立教16年3月10日天理教教会本部