天理時報2021年2月14日号4面
歴史探訪企画”天理ゆかりの武将”の真の姿とは一次史料に見る松永久秀像戦国時代の大和を治めた武将の真の姿とは-。7日に最終回を迎えたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、主人公・明智光秀に影響を与える重要人物として、大和の戦国武将・松永久秀が登場した。通説では〝悪人”として知られる久秀だが、「麒麟がくる」では、近年の一次史料の検証によって明らかになった忠義の人”としての久秀像が描かれた。ここでは、久秀研究の第一人者である天野忠幸・天理大学准教授の解説を交えながら、主家に生涯、忠義を尽くした久秀の真の姿に迫る。天理市に城跡が残る龍王山城の統治を息子・久通に任せるなど、天理とゆかりの深い久秀。官職名から松永弾正とも呼ばれ、自らの野望のためには手段を選ばない残虐非道な武将としてのイメージが残る。通説では、主君である三好長慶の息子・義興を毒殺し、さらに長までも死に追い込んだ「主君殺し」、京都の将軍足利義輝を殺害した「将軍殺し」、敵対した三好三人衆の陣を寺ごと焼き払った「東大寺焼き討ち」の「三大悪事」を犯したとされる。しかし近年、当時の畿内の手紙・日記など一次史料の研究が進み、〝悪人”としての通説を覆す史実が明らかになってきた。主君への恩義を生涯胸に摂津国(大阪府北部)の無名勢力に過ぎなかった久秀は、30歳のとき長慶に能力を見いだされ、仕官する。すると政治・軍事の両面で大活躍。十数年後には、四国東部から畿内一円の広大な領土を支配する三好家のナンバー2となり、朝廷から長慶と同列に扱われるなど、異例の大出世を遂げた。久秀にとって長慶は、出自の低い自身を実力者へと導いてくれた大恩人であった。【天野准教授の解説】「久秀が長慶をないがしろにする言動は一切見られない。史料からは、長慶への恩義を生涯胸に刻み、三好家の繁栄を強く願っていた姿が明らかになっている」第一の悪事「主君殺し」については、真逆のエピソードを記した手紙が、久秀の側近として取次を務めた柳生氏の『柳生文書』に残されているという。病に倒れた義興が重篤との知らせを受けた際、久秀は「とても不憫で消え入りそうだ。敵が現れたら、三好家のために討ち死にする覚悟」と、したためている。当時、長慶から義興の後見人を命じられた久秀は、義興の育成に努めていた。ところが、義興は22歳で病死。55歳の久秀は失意のあまり、隠居して家督を息子・久通に譲る。さらに義興の死の翌年、長慶は4歳で死去した。混乱する家中では、長慶の甥・義継を中心とする新体制が発足。そんななか、1年後に起きたのが第二の悪事「将軍殺し」だった。【天野准教授の解説】「当時10歳の義継、2歳の久通を中心に、三好家の一族家臣による仕業だったことが、公家の日記『言継卿記』に記されている。このとき久秀は、京都にさえいなかった」三好家の失態を受け、久秀は老体を押して朝廷と交渉し、名誉挽回に奔走。ところが、足利義昭に脱走されるミスを犯して、三好三人衆に大和を攻撃される事態となり、その戦の最中に起きた出来事が、第三の悪事「東大寺焼き討ち」となった。【天野准教授の解説】「通説では、久秀が敵もろとも焼き討ちにしたとされるが、興福寺の僧侶が執筆した『多聞院日記』をよく読むと、実際は延焼による不慮の事故だったことが分かる」その後、三好家は衰退し、長慶の死から約10年後に滅亡。この間も久秀は義継を支え続け、織田信長に敗れると出家したという。では、なぜ悪人としてのエピソードが残るのか。【天野准教授の解説】「豊臣秀吉の家臣・太田牛一が江戸初期に記した軍記物に『三大悪事』が描かれている。牛一は、秀吉亡き後、天下を狙う徳川家康を批判する世評をつくり出すため、主君を裏切った武将が悲惨な最期を遂げる例として、信長に背いた久秀の『三大悪事」を捏造した。その記述を基に武士の心得を説いた軍談書『常山紀談」では、反面教師として久秀が登場する。さらに、幕末から明治期にかけてのベストセラー歴史書『日本外史」でも悪人として描かれたため、通説が定着したのだろう」「ジャンジャン火」に影響天理市内には、久秀にまつわる伝承が残っている。現在の天理から橿原一帯までを治めた十市遠忠が、居城・龍王山城で久秀に攻め滅ぼされる。遠忠や家臣らの怨霊が火の玉となり、麓に降りて、見たものを焼き殺すこの伝承は「ジャンジャン火」と呼ばれ、中山正善・二代真柱様の著書『ひとことはなし』にも記述がある。天理の伝承や文化に詳しい齊藤純・天理大教授は「古来、火の玉の正体は怨念と考えられていた。地元の有名な武将である遠忠が主人公となり、悪名高い久秀が悪役として登場したのでは」と話す。では、本当の史実はどうなのか。【天野准教授の解説】「久秀が大和へ侵攻したとき、遠忠はすでに死去し、息子・遠勝が当主だった。龍王山城でも大規模な戦闘はなかったとされる。久秀の悪人としてのイメージが、伝承にも影響を及ぼしたのだろう」◇久秀の死から数十年後、徳川家康の天下統一により、平和な時代が訪れる。しかし、戦国時代の名残は、天理周辺の言い伝えとして今に息づいている。昨年、見つかった久秀の肖像画(上)。これまでは、残虐非道な悪人”として描かれていた(下)『松永久秀肖像画」(大阪府高槻市立しろあと歴史館所蔵)、『太平記英勇伝」(同)久秀とゆかりのある龍王山城跡から見た奈良盆地日本史コンシェルジュ歴女〟がご案内いたします白駒妃登美崇高な精神と高い技術力1980年にWHOが根絶を宣言するまで、洋の東西を問わず、多くの命を奪ってきた天然痘。天然痘根絶の最大の功労者と言えば、英国のエドワード・ジェンナーでしょう。1796年に、牛痘にかかった農民の膿を子供の皮膚にすり込むという方法(牛痘法)で、天然痘の予防接種(種痘)を成功させたのです。一度でも牛痘に感染すれば、天然痘には生涯感染せず、しかも症状が軽く、死亡率もぐっと抑えられるため、牛痘種痘法は急速に普及しました。このジェンナーと並ぶ種痘の功労者が、もう一人います。江戸時代後期の秋月藩(現在の福岡県朝倉市)の医師・緒方春朔です。実は牛痘種痘法が確立される以前から、別の方法で種痘は可能でした。天然痘の患者から集めたかさぶたを粉にして鼻から吸わせ、人工的に免疫を獲得させる方法です。これを「人痘種療法」といいます。ただし、牛痘に比べて天然痘患者の膿は毒性が高いため、重篤な症状が出たり、死亡するリスクが高かったりしたのです。この人痘種痘法を研究し、見事に成功を収め、生涯に1千人以上の子供に実施しながら一人の死者も出さず、醜い痘痕も残さなかったのが、春朔でした。春朔はもともと漢方医でありながら、長崎で西洋医学も学んだ人物です。中国の医学書で人痘種痘法を知った春朔は、研究と改良を重ねていきました。十分に研究が進み、あとは臨床実験をするだけ……..という段階になったとき、救世主が現れます。庄屋の天野甚左衛門です。彼は、かつて春朔に自宅の離れを貸していたという縁もあり、研究の後押しをしてきましたが、このときも、子のない春朔に「私には二人の子がいます。この子らに実験してください」と申し出たのです。甚左衛門は、我が子を危険にさらしたくないと泣いて反対す妻を、こう言って説得したそうです。「この実験が成功すれば、私たちの子も含めて世間の多くの子の命が救われるではないか。私は春朔先生が熱心に研究するお姿を見てきた。春朔先生を信じようではないか」すると、彼の熱意に妻も覚悟を決めます。「もし不幸にしてこの子たちが死ぬようなことがあったら、そのときは私たち夫婦も死にましょう」と。天野夫妻の真心に応え、ついに春朔は1790年2月14日、天野家の二人の子に人痘種痘法を試み、成功させました。それは、ジェンナーの牛痘種痘法成功の6年前のことでした。この快挙はもちろん称えられるべきですが、春朔の本当の素晴らしさは、次の点にあったと思います。第一に、当時は珍しかった予防医学という概念を持ったこと。第二に、身分の低い者や貧しい者にも分け隔てなく種痘を実施したこと。第三に、漢方医の世界は「秘伝」が当たり前だった時代に、希望者に惜しみなくその技術を伝えたこと。第四に、種痘について医師だけでなく庶民にも理解させるため、分かりやすい言葉で書物を著したこうした春朔の崇高な精神と高い技術力は、牛痘種痘法が日本に伝わり普及するまでの約600年の間、数えきれないほど多くの命を救いました。医学の進歩の陰に、春朔や天野夫妻をはじめとする無数の人々の存在があったことに、深い感銘を受けますね。文芸連載小説ふたり星の降る夜は作/片山恭一画/リン第17話青年の打ち明け話部屋にはトトとハハと青年とわたしがいた。カンは自分の部屋でやすんでいる。青年は風呂に入り、トトの服を借りて一緒に夕食を食べた。いまはワインを飲んでいる。「まいったなあ」。どうやら口癖になっているらしい。「ダイプしようと思って来たんです」「ダイブ?」「自分に始末をつけるつもりでした」。そう言って青年は、ちょっと怯えた目で二人を見た。どうやら難しい話になりそうだった。「何か事情がありそうだとは思っていたよ」。トトはワインのグラスに指をかけたまま言った。「よかったら話してみないか」彼はしばらく考え込んだ。それから言葉を一つひとつ重そうに口まで運んで話しはじめた。両親の期待がずっと重荷だった。その期待を裏切ることができなかった。成績はよかった。二人が自分たちの息子をいかに自慢に思っているかは痛いほどわかった。わかり過ぎるので辛かった。「アウトローになれるとよかったんだけど」。彼は言葉を選びながらつづけた。「あるとき突然わかったんです。二人とも自分のことにしか興味がないんだってなんにでも口出しするわりには、息子のことが、まるでわかっていない。たんに鈍感ってことじゃないんです。子どもに過剰に干渉するのは彼らの自我の延「長なんです」言葉をおいて、なぜか男はわたしを見た。「なんて名前ですか」「ピノ」。ハハが答えた。「きみがいま飲んでいるワインの品種だよ」。トトが付け加えた。「おとなしい息子さんですね」「言葉が出ないの」青年は驚いた様子もなく、ただ黙ってうなずいた。「ずっと走りつづけている感じなんです。同じところをずっと」。彼はどこか切羽詰まった口調で言った。「肺は熱く焼けて、心臓は破裂しそうなほど鼓動しているのに立ち止まることができない。止まった途端に自分に追いつかれそうな気がして」「家出をするとか旅をするとか、そういうことでは片づかなかったのかい」。トトがたずねた。「両方とも、やってはみたんです」。青年は静かに言った。「でも本当の問題は両親じゃなかった。ぼく自身が問題だったんです。もちろん彼らの育て方に問題があったのはたしかです。でも、そんなことを言ってもはじまらない。もう親のせいにする歳じゃないし。なんとかしなきゃ。自分で自分をなんとかしなきゃ……」「なんとかしようとして、うちの子を助けてしまったわけだね」。トトは青年に向かってやさしく言った。「わたしにはもう解決しているように見えるけどね。きみの問題は、きみ自身が解決してしまったんじゃな「いかな」見えていたのかもしれない、とわたしは思った。いまは声を立てずに泣いている若い男の未来、車もろとも海にダイブする光景が、あの子には見えていたのではないだろうか。時報俳壇ふじもとよしこ選天理ラガー一手一つに日本一門真市傳石敏治筆塚に影を落として梅ふふむ浜松市鈴木和加惠梅の香やおぢばへ向かう地図の旅萩市沖田道子我の弾く胡の音色雪に消え兵庫県藤田千春リハビリの歩の進みたる春隣今治市仙波絹子必勝を期すラガー等に貰う夢天理市中山富貴歓喜満つ天理ラガーの日本一名古屋市伊園三郎ラガー等の日本一の破顔かな堺市坂口知子冴返るオリオンの星地軸まで鳥取県野間田芳恵寒鰤の口に差し込む値札かた千葉県樋渡雪を掻く八十路半ばの二人かな札幌市田森つとむ布留川の辺りほつほつ寒紅梅橋本市北村薫初めての空に微笑む梅一輪埼玉県金谷武方言のほっこり川の凍り初む滝川市家納千世子話すこと無きも子の居て春二月豊川市菊地美智代老梅やはんなりと紅咲き初むる奈良県松村ヒロ子校庭に響き合ふ声寒稽古尼崎市前田禎子止めて蝋梅の香に浸りおり横浜市中尾砂江日のみどりの粥の昼餉かな姫路市前田あや子二月礼者子午線またぎ来たりけり明石市松本和子節分や母のほおばる恵方巻亀山市樋口育夫立春のためいきなるやコロナ禍に東京都内野光雄初電話ビデオ通話の母笑顔奈良市岡千裕百二才の母のこゑあり初電話一宮市伊藤恵子葉牡丹や包む祈りをほどく道天理市梶谷政徳袋田の滝凍りけり時とまる水戸市富田直子梅東風の輝く香り京の山京都市下條やすよ寒空に鳴響く朝づとめ徳島県清崎礼子快く相席ゆるす花見かな陸前太田市梶山文子地球儀から世界始まる冬小部屋津山市工藤圭志今週の選者詠待ちわびし教祖の御心梅ふふむ【評】傳石さん大学ラグビー界の頂点に初めて立った天理大学。祝福する句が、全国からたくさん寄せられたなか、チームスローガンである「一手一つに」のフレーズが際立っています。鈴木さん使い古した筆の供養塚に、蕾のふくらんだ梅の木が影を落としています。しっとりとした景です。筆と梅の取り合わせに、天満宮や菅原道真を想像させられます。沖田さん久しく本部神殿への参拝がままならず、寂しい思いの方は多いことでしょう。教祖殿南側の梅の開花を待ち遠しく思いながら、地図を広げておぢばへの道を辿っている作者です。藤田さん――日本海側は雪の日が続いていますね。胡弓の練習に余念のない作者ですが、胡弓の音がかき消されてしまうほどの大雪なのです。仙波さん立春を過ぎるも、「春は名のみ……」のこの季節です。だれしも春を待ち望んでいます。毎日のリハビリで、いつもより長く歩けたとき、「もうすぐ春なんだ!」と感じた作者です。次回は、2月24日までの到着分から選句します。投稿は無地のハガキに俳句3句、または短歌3首まで。お名前(ふりがな)、電話番号を記載のうえ、楷書でボールペンで書いてください。〒632-8686天理郵便局私書箱30号「時報俳壇」または「時報歌壇」係Eメールは[email 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