三年千日は“躍動の旬” 心を定めたすけ一条へ – 立教186年春季大祭 中田表統領神殿講話(要旨)
既報の通り、教祖が現身をかくされた明治20年陰暦正月二十六日に由来する、立教186年「春季大祭」が1月26日、本部神殿で執り行われた。ここでは、中田善亮表統領の神殿講話の要旨を掲載する。
今日は、教祖が現身をおかくしなされた理と、そこにこもる親心と思召に心を寄せ、心に刻む日だ。これに加えて、教祖140年祭へ向かう三年千日活動のスタートの日でもある。
教祖は、ご存命のまま、世界たすけのうえにお働きくだされている。姿が見えないだけで、瞬時も途切れず、私たちをお見守りくださり、お導きくださる温かいご存在だ。現在もこれから先も、私たちは教祖を身近に感じ、もたれさせていただける。これほどありがたく、心強く、安心なことはない。
常に教祖の親心と思召を求めて
年祭の日までの3年を仕切り、集中してひながたを辿らせていただき、心の成人を志すのが年祭活動である。そのためには何らかの目標を持ち、その実現のご守護を頂戴しようと、具体的に心を定めることが大切だ。心定めを実践する道中では、いろいろとお手引きをお見せいただく。そのたびに思案を重ねて、をやの思召を誤りなく悟る努力が求められる。
教祖の年祭は、常に教祖の親心と思召を求める姿勢が第一である。ようぼくとして、いま身の周りに現れていること、成ってくることをよく思案し、自分に頂戴する御用、役割を求め、自覚してつとめさせていただくことだ。それはをやのご期待であるから、厳しく難しそうなことでも、ご期待にお応えするという勇み心で臨めば、きっと喜びの道が開けてくるに違いない。
いまの自分にできる精いっぱいを
「諭達第四号」に示されるように、ようぼくは教会へ足しげく運ばせてもらうことだ。をやの思召や親心を分からせていただくには、それが一番の近道である。
そして、ひのきしんに励む。さらに言うなら、日常の行いそのものに親神様への感謝の心がこもれば、それもひのきしんである。
にをいがけ・おたすけでは、あまり気負わず、自分の周囲をあらためて見渡してみよう。身上や事情で困っていたり、たすけを求めていたりする人は少なくない。まずは素直に声をかけてみよう。
おさしづに「働きの理が見えてある」(明治40年5月17日)と仰せられる。教祖のお導きに気づいて、温もりと深い親心を感じさせてもらうとともに、かりものの体をはじめ、日々篤いご守護に守られていることへの感謝を忘れず通らせていただこう。
いよいよ三年千日が始まる。私たちの真実のたすけ一条の実動、心を勇ませての躍動の旬である。いまの自分にできる精いっぱいを心に定め、互いに励まし合い、力を合わせてつとめきらせていただこう。