じっくり思案して備える年に – 視点
世界がコロナ下の状況になって3年目に入った。日本では、昨年秋から感染状況が収まりを見せ始め社会に明るさが戻っていたが、年明けとともに新たな変異株が急速に拡大したことで、社会に再び不安が広がっている。筆者も今年を「再起の年に」という希望を持って迎えただけに戸惑いを隠せない。
そんななか、去る1月4日、教会本部において真柱様の「年頭あいさつ」があった。お言葉の中で、4年後の立教189年に教祖140年祭を勤めること、来年はその年祭を目指しての三年千日の動きに入っていくこと、いまの時旬を考え、それぞれのつとめを果たしてもらいたいという旨をお示しいただいた。
個人的な感想であるが、いまだ先行き不透明な状況であるだけに、これから全教ようぼく・信者が共通して目指すべき新たな目標をお示しいただいたことは大変心強く、大きな希望を感じている。
そこで「三年千日」の意味を少し振り返ってみたい。
お道で三年千日がいわれるようになったのは、教祖5年祭の3年前に示された刻限おさしづによる。
すなわち「難しい事は言わん。難しい事をせいとも、紋型無き事をせいと言わん。皆一つ/\のひながたの道がある。ひながたの道を通れんというような事ではどうもならん。(中略)僅か五十年。五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。(中略)僅か千日の道を通れと言うのや。(中略)ひながたの道より道が無いで」(明治22年11月7日)とのご神意であった。
教祖50年のひながたを3年でよいから仕切って通れば、50年通ったのと同様に受け取るとの有り難いお言葉である。とかく年月を経るごとに心が弛みがちになる子供のうえを思っての親心がうかがえる。
現代にひながたを通るとはどういうことなのか、三年千日にどんな心定めで臨むのか、じっくり思案して、時旬に備える年にしたい。
(諸井)