特別企画 新“ひながたの風景”をたずねて – 第二十三話 諸井国三郎ゆかりの静岡県袋井市へ
逸話にまつわる地を訪ね事跡にふれて広がる情景
岡田正彦 天理大学教授
教祖が現身をもってお働きになっていた時代、土地所で教えに導かれた人々は、教祖を慕って遠近からお屋敷に帰り集い、数々の不思議をお見せいただいた。距離をいとわず、海を越えて、たびたびお屋敷へ足を運んだ山名大教会初代会長・諸井国三郎もその一人。「新“ひながたの風景”をたずねて」第二十三話では、諸井国三郎にゆかりのある静岡県袋井市などを訪ねた。
先人ゆかりの地を巡り
明治17(1884)年1月21日、山名大教会初代会長・諸井国三郎は、3回目のおぢば帰りのために同行10名と共に遠州を出発します。翌日、伊勢へ向かう船が出る豊橋に着いた諸井国三郎は、出立の時間まで町中を散策するうちに名案を思いつき、大幅の天竺木綿を4尺ほど買い求めて、提灯屋に頼んで旗を作らせました。
一行は、白地の中央に日の丸を描き、その中に天輪王講社と大きく墨書したこの「フラフ」を先頭に立てて伊勢湾を渡り、当時、多くの人々が往来していた伊勢街道を通っておぢばを目指します。そして、1月26日には丹波市の宿に一泊し、翌27日朝、6台の人力車を連ねて一路お屋敷へ向かいました。その先頭には、フラフを立てた諸井国三郎が乗っていました。
途中で見張りをしていた巡査に尋問されますが、うまくかわしてお屋敷に到着します。このとき教祖は、数日前から、
「ああ、だるいだるい。遠方から子供が来るで。ああ、見える、見える。フラフを立てて来るで」
と、仰せになっていました。このため、旗を先頭に立てて到着した一行を迎えた人々は、教祖にはこの旗が見えていたのであるなあと、感じ入ったそうです。
今回の取材では、この逸話に関わる場所を1日で巡ります。
まず、名古屋市の名京大教会に参拝し、おぢば帰りに使用したフラフの一つを拝見しました。白地に描いた日の丸に「天理王講社」と大きく墨書し、その左下に「遠江國真明組」と記した旗が、現在も大切に保管されています。
フラフを収めた袋には、初代会長から旗を譲り受けた由来とともに、このほかにも別の旗があったと記されていました。諸井国三郎の長女・玉の覚書のようです。一文字一文字に、なんとも言えない気品と「遠江國真明組」への思いを感じます。
これまで、この企画の取材を通して多くの先人の筆跡にふれる機会を与えていただきました。そのたびに強く感じるのは、直筆の文献や史料には常に、書き記された文字の情報以上に、心に響く“何か”が含まれていることです。
続いて静岡県袋井市へ向かい、山名大教会の発祥の地にある遠本分教会を訪ねます。明治36年に現在地へ移転するまで、ここを拠点にして活発な布教活動が展開されていました。
袋井宿は、いわゆる東海道五十三次のちょうど中間地点にある宿場です。明治20年代には、当時の教会と東海道をつなぐ引き込み道路があり、「天輪王道」と呼ばれました。東海道との分岐点には立派な道標が建立され、参拝する人々の目印になりました。
こうした立地を考えると、ここから東西南北の遠隔地に布教線が拡大していったことがうなずけます。教祖には、フラフだけではなく、こうした将来への展望も見えていたのでしょうか。ちなみに、この地の南方は海ですが、山名の道は早くから台湾にも伝わっています。
この後、東海道線の開通後に袋井駅近くに移転した、現在の山名大教会で参拝しました。東海道に隣接した場所から鉄道の駅の近くに移転した経緯には、常に「ぢば」へ足を運ぶ信仰と、各地から教会へ参集する人々の便宜を図る親心を感じます。
さらには、初代会長をはじめとする教会関係者の墓所へも案内していただきました。高台に林立する石塔には、この道に尽くしてきた先人・先輩方の誠真実が刻まれています。
筆致から滲む信仰姿勢
日程が合わなかったこともあって、初代会長が書き残した文書などは事前に拝見しました。山名大教会のルーツに関わる「こふき」の写本に感銘を受ける一方で、諸井国三郎が書き記したさまざまな覚書には、教祖の教えを真摯に求める信仰心と、一を学んで十を悟る聡明さを強く感じます。特に、その教理理解の奥深さには感嘆しました。
諸井国三郎が書き記した「天輪王講社信心道書抜」(明治16年)の冒頭に「天りんおふ講社ハ、おがみ、きとう、をするのでは、ありません。しんじんの道を、おつたへ申ので、おはなしを、よくきかないと、御りやくハありません」とあるのは以前から知っていました。
しかし、ご本人が「みかぐらうた」や教理の覚書を書き留めた文書を手に取ると、その筆跡や筆致から滲み出る、真理を探究する姿勢に圧倒されます。文字は決して、ただの記号ではないのです。
帰路は、豊橋から陸路で伊良湖岬へ向かい、フェリーで伊勢湾を横切って鳥羽に着きました。明治期の伊勢参宮道中記には、船で伊勢湾や三河湾を渡る記録が散見されます。
明治17年のおぢば帰りの際には、豊橋から乗船して三河湾と伊勢湾を横断したようです。少し天候を心配していましたが、途中から太陽が出て美しい海上の景色を堪能しました。
伊勢に上陸した一行は、青山峠を越えて現在の名張市や宇陀市を通る初瀬街道を経て、桜井から天理へ向かいました。この道は、この企画で何度も歩いた当時の主要な街道の一つです。
一行が宿泊した丹波市を含む「伊勢道中記宿附」には、通過地点の宿場や宿屋が記載されています。今回は青山峠を歩く時間の余裕はありませんでしたが、コロナ禍を克服したころに、宿場を辿りながら歩いてみたい旧道の一つです。
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こうして現地に足を運んで往時の文献や遺物にふれると、教祖伝や逸話篇に伝わるエピソードが、まるで1本の映画や1冊の物語のように目前に広がるのを感じます。これからも「ひながたの風景」を辿る旅を続けたい。そう感じる一日でした。
コラム – 諸井国三郎の入信
遠州に初めて道の種を蒔いた吉本八十次。国三郎の家業で雇っていた番頭が連れてきたことがきっかけで、諸井家に住み込んで働くようになった。八十次は近隣の人々をおたすけし、「十全の守護」「かしもの・かりもの」「八つのほこり」の教えを説いて回った。
こうしたなか、明治16(1883)年、国三郎の三女・甲子が、身上によって医者も諦める危篤状態に。国三郎夫婦は談じ合い、八十次から聞いた親神様を信心することを共に誓い、一心に娘のたすかりを願ったところ、その夜のうちに甲子は鮮やかにご守護いただいた。
それから3日後、国三郎はお礼参りにおぢばへ向かい、教祖に初めてお目通りしたという。