世界の「難儀」に想いを馳せ – 視点
2022年2月末に始まったウクライナ戦争は、1年が経過しても、なお混迷を深めている。コロナ感染は落ち着いてきたものの、新たな変異株の感染力については予断を許さない。また、トルコとシリアでは、大地震によって多くの無辜の命が失われた。さらに、気候変動による洪水や飢饉、戦争がもたらす食糧難など、世界中から深刻な被害が伝えられている。
「おふでさき」では「むほん(謀反)/たゝかい(戦争)」や「これら(疫病)」に加えて、「山ぐゑ(山崩れ)」「かみなり(雷)」「ぢしん(地震)」「をふかぜ(大風)」「てんび火のあめ(大火災)」「つなみ(津波)」「水つき(洪水)」といった天変地異について、要するに、今日の世界を覆う「難儀」のほぼすべてに言及されている。それらはいずれも、人間に対する親神様の「ざねん」「りいふく」として、つまり、私たち人間に深い思案を促す厳しいメッセージとして捉えられるべきものである。
一方、こうした今日の世界における「難儀」のありようは、私たちには、その生々しい映像がテレビやネットで流されるたびに、つい目を逸らしたくなる過酷な現実として映っているのではないか。
確かに、一人ひとりのようぼくが、こうした現実の改善に直接的に関わることは難しい。私たちが日々の生活の中で心がける「たすけ」は、まずは自らの足元から始めるほかはないだろう。
だが私たちは、あえてこうした世界の「難儀」に目を凝らし、想いを馳せるよう努めることで、その意味を思案するとともに、こうした現実に直面する人々もまた親神様の「こども」として、「きょうだい」として、私たちとつながっているという真実を、深く悟ることができるのではないだろうか。その悟りはまた、教祖が「おふでさき」に記された意味を、新たな眼差しで見つめ直す契機にもなり得るだろう。そうした思案を深めることで、私たちは「一れつきょうだい」という教えの神意を、真に実感できるようになるかもしれない。
(島田)