第1話 無数の星が輝く夜 – ふたり
冬でも波のある日は海に出る。風が冷たく、海に入る時間は限られるけれど、この季節ならではの良さもある。まず水がきれいなこと。海の青さが際立つのも、冷たい北風が吹くころだ。遠くから静かなうねりを運んでくる深い青のなかには、何か崇高なものが潜んでいる気がする。
今朝も熱いコーヒーを飲んできた。彼の一日は、自分で豆を挽いて淹れる一杯のコーヒーではじまる。車の後部座席には一眼レフのデジタルカメラとレンズが入ったカメラバッグが置いてある。ガードレールの向こうに見える海は昇って間もない朝陽に輝き、カーブを曲がるときにバックミラーが眩しく光った。今日はいい写真が撮れるだろうか?
波が立たないこの季節、サーファーの多くは冷たい海よりも、スパやサウナで骨休みすることを選ぶ。しかし冬の海にはどこか人懐っこいやわらかさがある。とくに日差しを浴びた穏やかな海は、心を伸びやかにさせてくれる。
また一人前のサーファーたちが物足りないと感じる季節は、初心者にとってはいい波が立つ季節でもある。毎年冬休みを利用して、都会から子どもたちがやって来る。付き添ってきた若い母親が、一緒にサーフィンを習うこともある。生徒たちには長袖のフルスーツを着せるが、彼自身はよほど寒い日でない限り、シーガルと呼ばれる半袖で長丈パンツのウェットスーツで済ましてしまう。
すでにおわかりと思うが、彼の名前はカン。いまは立派な青年になり、言葉も少しは喋るようになっている。高校を卒業したあと、大学へは進まずに半年ほど世界中を旅した。すっかりたくましくなって帰ってきたあの子が、はじめて言葉を発した瞬間を、わたしは忘れない。
「ただいま、ピノ」
残念ながらわたしの寿命は思ったよりも早く尽きてしまった。カンが帰ってきたころから、なんとなく身体が重くなり、食欲がなくなった。無理して食べると吐いた。レントゲンで調べると、「悪性腫瘍」というものが腹のなかにできていた。そいつがすくすく育って、すでに取り返しがつかない大きさになっていた。手術で取り除くのは難しいので、放っておくことになった。
幸い痛みも苦しみもほとんどなかった。犬にも徳があり、わたしにはそれが備わっていたらしい。カンはわたしをトトのサーフボードに乗せて海に流してくれた。最後のとき、あの子は何も言わなかった。長くそうであったように、わたしたちは言葉を介さずに別れを告げた。
暗黒のなかを落ちていくようでもあり、内側へ昇っていくようでもあった。気がつくと無数の星が輝く夜のなかにいた。こうしてわたしはトトのサーフボードで天空を航行しながら、いまもカンを見守っている。