早春の訪れ告げる菜の花畑 “天に届く”生き方を – 逸話の季
3月になりました。里山のあちこちに、春の訪れを感じます。先日も山道を散策していて、久しぶりにウグイスの鳴き声を聞きました。美しく澄んだ声が、青い空に吸い込まれていきます。また新しい季節が巡ってきたようです。
厳寒の冬が過ぎれば、必ず暖かい春が訪れます。そして色鮮やかな花が咲き、新緑が地を満たします。あまり明るいニュースが届かない昨今ですが、穏やかな春の日和は、もうすぐそこまで来ています。
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明治17年3月24日(陰暦2月27日)から4月5日(陰暦3月10日)まで、教祖は、奈良監獄署へ御苦労くださいました。このとき同行した鴻田忠三郎は、獄吏から便所掃除を命じられます。忠三郎が掃除を終えると、教祖は「どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで」と、諭されました。
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過ぎし人生の節目を振り返ったとき、最も心に響く逸話の一つです。
還暦の年を迎えてから、妻が古いアルバムを開く時間が長くなりました。懐かしそうに見ている写真には、過去のさまざまな出来事が記録されています。家族や教会の方々、仕事先の人々と共に生きてきた日々の中で、私の心はどのように天に届いてきたのでしょうか。“不足”の理ではなく“結構”の理が届く日もあったでしょうか。
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こう考えて人生を振り返ると、反省すべきことばかり思い浮かびます。親神様からご覧になった自分の姿は、言葉や態度や立場でごまかすことはできません。その時々の「心」は、表面上はうまく取り繕えても、そのまま天に届いています。
とはいえ、自分の心の向きを変えられるのは自分だけです。過去を振り返って反省するばかりでなく、むしろ今日から、天空に響く鳥の声のように、結構の理が“天に届く”生き方を求めていきたいものです。
文=岡田正彦