人を信じ恩をつなぐ – 日本史コンシェルジュ
2023・8/23号を見る
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貧しい農家に生まれた豊臣秀吉。彼の夢は武士になることでした。しかし実際は、農民から天下人へと夢を遥かに超えた人生を歩んだのです。その陰には、秀吉に自分の夢を重ね、天下人の座へ押し上げた人たちの存在がありました。
美濃(岐阜県南部)出身の竹中半兵衛も、その一人。織田信長の美濃攻略と時を同じくして、秀吉は半兵衛の元へ通い、信長への仕官を勧めたことが二人の出会いだったといわれています。信長に従うことを決めた半兵衛は、秀吉の配下につけられました。こののち、半兵衛は秀吉のもとで知略を大いに発揮し、天才軍師と呼ばれるようになります。
天正6(1578)年、摂津有岡城(兵庫県伊丹市)の城主・荒木村重が信長に謀反を起こしたとき、村重を翻意させようと説得に行った織田方の武将・黒田官兵衛が幽閉されてしまいました。有岡城の情報が一切入らないなか、信長は、官兵衛が逆に村重に説得され、反乱軍に加わったと判断します。そして、人質として預かっていた官兵衛の息子・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すよう、秀吉に命じたのです。
しかし、半兵衛は違う見方をしていました。官兵衛が裏切るはずはないと確信した半兵衛は、自ら松寿丸の処刑役に名乗り出ます。そして、秘かに松寿丸を生かしました。
官兵衛はその後、1年にも及ぶ幽閉生活から救出され、無実が証明されました。もし半兵衛が機転を利かさなければ、官兵衛は悲嘆に暮れ、判断ミスを犯した信長を恨んだことでしょう。半兵衛は松寿丸の命と信長の名誉、その双方を救ったのです。
すべてを知った官兵衛は、半兵衛に心からの感謝を捧げます。しかしそのとき、半兵衛はすでに病で亡くなった後でした。ここから、秀吉を軍師として支えるという半兵衛の役割は、息子の命を救われた官兵衛に引き継がれ、天下統一へとつながっていくのです。歴史は実にドラマティックですね。
岐阜県垂井町の五明稲荷神社では、匿われていた松寿丸が、この地を去るときに銀杏を植えたという伝説が語り継がれてきました。竹中家の菩提寺・禅幢寺の住職は、戦国を代表する軍師二人の子孫が、その後も交流を重ねて現代に至ることを折にふれて語っておられます。
人を信じ抜くこと、恩を継承すること。そんな先人の美徳が、いまも垂井の地には息づいているのです。
白駒妃登美