「在ること」への招待 – 成人へのビジョン17
2023・9/6を見る
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人は老いる生き物です。ある一定年齢まで体は成長しますが、ピークを過ぎると、加齢とともに目はかすみ、耳は遠くなり、足腰は弱まり、頭も思うように働かなくなっていきます。若いころと比べて身体機能は着実に衰え、それに伴い「できること」が減っていく。それは生物の宿命です。
もし私たちが「できること」のみに生きる価値を置くのなら、老いはつらいプロセス以外の何物でもありません。人生のメインステージは若者に占拠され、「できること」は限られ、ステージを眺めるばかり。それどころか、自分では「できない」ことのために多くの支援を必要とします。築き上げたものも、いずれは取って代わられ、寂しさを覚えるかもしれません。
現代社会で暮らすうちに、私たちは「何ができるか」という能力主義的な価値観に浸ってきました。そこでは「できる人」がもてはやされ、「できない人」は陰に隠れがちです。
しかし、私は思います。老いることで、私たちの重点は「できること」から「在ること」へ移っていくのだと。それは「生きること」の積み重ねでしか生み出せないような存在の重みです。
私の恩師は、脳梗塞のため半身不随となり、車いす生活を余儀なくされました。呂律が回らず、言葉がはっきり聞き取れないこともたびたびです。でも、先生には大きく明瞭な声は必要ありませんでした。なぜなら先生が口を開けば、誰もが耳を澄まし、一言一句に聴き入ったからです。先生の存在自体が、聴く者の心の姿勢を自然と正すのです。これは言葉ではうまく説明できません。
「どんなに闇が濃くても、ロウソクの火が消えないように、どんな中でも私の魂が光っている。病気になろうが、不景気になろうが、私の魂が光っている。そうした信仰を一緒に目指そう」と、恩師は言いました。その存在は、確かに光っていました。
恩師の口癖は「心を澄ます」です。能力主義が求める成長とは異なる、成人の道。何かを身につけるのではなく、我を払う道です。
「できること」への呪縛から解き放たれたとき、私たちは「在ること」へと開かれていく。老いは、その可能性へと招待しているのかもしれません。
可児義孝