それが青空と分かるには – 成人へのビジョン18
2023・10/11号を見る
【AI音声対象記事】
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「なんでほこりの心づかいがあるんですかねえ。ハナっから優しい心の人間ばかりつくればよかったと思うんですが」。修養科から詰所に戻ってきた彼は、納得いかない様子で私に尋ねます。お道の勉強をすればするほど疑問が湧くようで、教養掛の私は質問攻めにされる毎日です。
ときに私は彼の質問を疎ましく感じる一方で、「親の言うことを幼子が信じなかったら何も立ち行かない。だから教えに対する素直さは大事だよ。けれど、疑問は疑問として大切にしたらいい。それは神様の思召を尋ねる緒(いとぐち)にもなると思う」と、調子のいいことを言っています。
「神がいるなら、なぜこの世に悪があるのか」とは、人間の真摯な問いの一つ、痛切な叫びとして、古今東西さまざまな変奏をもって語られてきました。きっと彼の素朴な疑問は、人々の幸福を願う精神の発露なのだと思います。
さて“無痛病”というものがあります。正式名「先天性無痛無汗症」。生まれつき痛みを感じる神経や発汗機能が発達せず、痛みや温度を感じない(感じにくい)、汗をかかないという病気です。痛みを感じないがゆえに体の異変に気づけず、したがって容易に外界の危険を察知できないのです。誰もが忌避する痛みの感覚は、人間の生存のうえに大切な働きを担っているのです。
ほこりの心づかい、強いてそれ自体に意味を見いだすとすれば、ほこりが絶無である状態をイメージするといいかもしれません。ほこりのために傷つくことも、傷つけることもなく、心を澄ます必要のない世界。それは同時に、そこは危ないよ、それ以上進んだらいけないよ、苦しくなるよ――そうしたメッセージが存在しない世界でもあります。そのとき果たして私たちは、他者を思いやったり、優しさを受け取ったり、苦しみに寄り添ったり、幸福を嚙み締めたり、人生の意味に思いを巡らせたりすることができるのでしょうか。
ある写真家が「一面が青空の写真なんてものはない。そこには雲があり、電柱があり、鳥がいる。青だけでは、人はそれが青空だと分からない」と述べていました。至言だと思います。
可児義孝