口癖は「ああ、もったいない」おたすけが何よりうれしく 鈴木よね(下) – おたすけに生きた女性
2023・12/20号を見る
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教祖を一途に慕い、道広めに生涯を捧げたよね。その生きざまを、嶽東のある老役員は「富士の磐根のような方であった」と語っている
寄り来る人々に心を尽くし
明治23(1890)年2月ごろ、鈴木よねから荒木はなへ、にをいが掛かりました。はなは2、3年来、婦人病に苦しみ、湯治場を転々と巡りましたが一向に全治せず、日を送っていました。その矢先に、初めて耳にする教えの理に感激し、早速、半次郎のもとへ赴きます。半次郎が説く神様のお話を聞いて”生涯の心”を定め、鮮やかにご守護いただきました。はな、40歳の年です。
よねは、はなと共に三嶋大社前の問屋から小間物類を仕入れ、それを背負って商いをしながら、伊豆一円をくまなく布教に歩きました。二人は形影相伴い、まさしく車の両輪のような間柄でした。狐狸や追い剥ぎが出る伊豆の山々を踏み分け、よねはひたすら神名を流し、はなは修理・丹精に精魂の限りを尽くしました。
よねは晩年、お話の始めに「わしあ、伊豆、駿河、相模の三国を荒木はなさんと小間物をしよって、商いしながら布教したんだよ」と、いつも語ったそうです。
よねは生来、湯治場を好み、しばしば熱海へ足を延ばしました。いで湯に親しみつつ、天衣無縫に誰はばかることなく神名を流し、この地からも多くのようぼくが輩出しました。
次々と不思議なご守護が現れると、毎日のようにおたすけを願う人や、お話を聞きに来る人がやって来ます。寄り来る人々には「満足させずにはかえされん」との思いから、赤貧にあってもその素振りさえ見せず、心を尽くします。親戚、知人にお金や米を借りてきては食事を用意し、茶菓を与え、満足させようと努めました。
当時のよねの苦心を物語る話が伝わっています。
「ある初秋のことです。奥様が青い稲を刈っておられる。なぜあんな青い稲を刈るのだろうと見ていると、それが夕飯になっていたのです。そうしてまで私どもにしてくださった真実とご苦労が、まざまざと胸に浮かんできます」
寄り来る人々に尽くせば尽くすほど、その思いとは裏腹に負債は増え、「理と情」の狭間で眠れぬ夜が続きます。明治24年ごろ、万策尽きた半次郎たちは負債を整理するため、3年と仕切って小田原の蜜柑山で働く相談を進めていました。
この話を聞いた周旋方の人々は、集まって相談し、真実を寄せて完済しました。今後こういうことがないようにと、真実のつくし・はこびがなされるのでした。よね夫妻は「水も落ち切れば噴き上がる」との証しを自ら歩んで示したのです。
さらなる遠国布教へ
大勢の人々が集まり、不思議なたすけの噂が広まるにつれ、嘲笑や弁難攻撃も次第に強まっていきました。医者は、医薬妨害を口実に当局に誣告し、僧侶は天理教撲滅の狼煙を上げて張り紙を貼ったり、演説会を開いたり、時には布教師に迫害を加えたりもしました。
「天理さんの白狐」と笑い謗られるなか、当時、小学生だった長男・平作が泣き泣き帰宅した日もありました。後日、半次郎は斯道会の講元である深谷源次郎にこのことを伺うと、「おぢばからきつうね(根)が張っている証拠やから、しっかり喜びなされ」と諭されました。胸中の靄はたちどころに雲散霧消し、勇み立ったといいます。
斯道会では”東の講社”と呼ばれ、源次郎からも大きな期待が寄せられて、出張所の設置を勧められました。明治24年秋から神殿普請が始まり、その一方で、おたすけも熱心に繰り広げられて教勢も伸展し、明治25年8月20日、嶽東出張所のお許しを戴きました。
それからまもなく、埼玉から熱海へ湯治に来ていた人に、にをいが掛かりました。よねはその人を訪ねて埼玉で1カ月ほど布教しますが、誰も耳を貸さず、いったんは帰ります。翌26年、再び埼玉で布教に歩くと、ようやく道が付きかけました。
これでよしとせず、よねはさらなる遠国布教を思い立ちます。最寄り駅へ行き、当地で頂いた御礼で買える所までの切符を求めると、宮城県の岩沼駅に降り立ち、そこから足の赴くままに神名を流して教えの種を蒔きました。この年、よねはおさづけの理を拝戴します。
明治30年代後半、国内布教の不振と日露戦争後の不況が重なると、事態の打開と新天地希求の気運が高まり、海外布教が盛んになります。嶽東からは韓国布教が打ち出され、明治40年、よねは先頭に立って渡韓し、1年余り滞在して、京城(当時)の地に道を付けました。大正5(1916)年には静岡県清水市で単独布教に歩き、同11年には台湾へ渡り、婦人布教師を激励します。昭和2(1927)年1月からの6カ月間はおぢばに滞在し、本部御供所で御用を勤めました。
八十路を越えてなお
晩年も、よねは誰はばかることなく飄々としておたすけに出ました。八十路を迎えた昭和11年夏、誰にも告げず、宮城県にある嶽東部内の布教所を訪ねます。そこは以前、よねが布教に歩いた地域で、布教所長夫人に「教会にいると徳を減らしてもったいない。来生の土産作りに来たのだから、東北一の都・仙台市内に、3畳一間でもよいから探してもらいたい」と伝えました。
よねは、バラック建ての6畳一間を借りて8カ月間滞在しました。冬は猫炬燵のようなもので暖を取り、火鉢の火を見ると「ああ、もったいない」と灰をかぶせたといいます。信者から贈られた角巻をかぶってにをいがけに歩き、布教所の月次祭には前日から来て、遅くまでおつとめの練習、お手直しをしました。おたすけの話になると一層元気な声で話し、「私はこの年で子供も孫もおります。そのことを思えば教祖はねえ。ああ、もったいない」と何度も語ったといいます。いつも教祖のひながたを心に歩んでいたのでしょう。
あるとき孫の仁郎が、よねに「こんな大きな嶽東になるには、どんな信仰をしたのかね」と尋ねると、「なあに、平作が3歳の折たすけられたとき、神さんに『私の目の黒い間は一生おたすけをさせていただきます』と誓ったが、ただそれを実行したまでだよ」と語りました。
昭和12年、2代会長を務めていた平作が52歳で出直しました。息子の急死を聞いて駆けつけたよねは、平作のそばに座るなり柏手を打ち、
「教祖ありがとうございます/\/\。平作や!おまえは3歳のとき、無い命をたすけてもらい、50年も使っていただき、長い間ご苦労さんでした。教祖、ありがとうございます/\/\」
と、人々が嘆き悲しむなか、常日ごろの信仰そのままにお礼を申し上げ、愛し子にねぎらいの言葉をかけました。
昭和16年2月下旬から、よねは病床の身となり、同年3月23日、85歳で出直しました。
これより先、3代会長・つる(平作の妻)は、床に伏すようになったよねに、心を込めて藁布団を作りましたが、なぜかそれを使うのを拒んでいました。しかし、出直す3日前になって快く勧めに応じ、つるに「長い間、苦労かけたなあ」と、ひと言、ねぎらいの言葉をかけたといいます。つるは、この予期せぬ言葉に驚くとともに、言い知れぬ感動を覚え、これが終生の喜びとなりました。
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よねは、神名流しこそわが子をたすけていただいたご恩報じであると、ただひたむきに、にをいがけ・おたすけに歩き続けました。「おたすけさせていただくことが何よりもうれしくて、家にじっとしていられない」と口癖のように語り、その言葉通り、よねの足跡は、駿河はもとより伊豆、相模、武蔵、東北へ、さらには韓国、台湾へも及びました。どんなときも教祖をお慕いし、ひながたの道を心に、「ああ、もったいない」と生涯たすけ一条に生きたのです。
文・松山常教 天理教校本科実践課程講師