初めに「抱負」ありき – 成人のビジョン21
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ある現象に対し、原因があってそうなったのだとする考え方を原因論といいます。たとえば、「子供がおもちゃを片づけないから怒った」というように、親が怒った原因は、子供がおもちゃを片づけないことにある、とする立場です。
反対に、ある目的のもとでそうしたのだとする考え方を目的論といいます。親が怒ったのは子供に原因があるのではなく、むしろ親のほうに「おもちゃを片づけさせる」という目的があったので、そうした手段(怒る)に出たのだとする立場です。同じ出来事でも、その人の世界観によって映る景色がまるで違ってきます。
一つ例を挙げます。風邪をひいたのは、寒い格好をしていたからでしょうか。それとも職場で感染された?むしろ仕事を休みたかったから?それもありそうです。
お道の人の考え方はどうでしょう。神様の思召に反する心づかいをしたので身上に障りを頂いた。心のほこりが身に顕れた。いずれも信仰的な思案を感じます。これらは原因論に近い考え方です。
一方で「陽気ぐらしへ向けた親神様からのお手入れ」と悟ることもできます。こちらも極めて信仰的ですが、より目的論に近い考え方といえそうです。
このように、お道には原因論と目的論の両者が見受けられます。というより、それらは分かちがたく結びついている。どちらに重きを置くか、その濃淡が私たちの信仰姿勢にさまざまな影響を及ぼすのではないでしょうか。
私自身、この道の信仰は、究極的には目的論だと思っています。「元の理」はその名が示す通り、お道の根本教理ですが、そこでは目的(人間の陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい)が人間世界の創造に先立っています。
初めに思召があった。陽気ぐらしという目的が、人間存在の真因である。信仰者にとって、それは与えられた生の一切を照射する光源ともなり得ます。苦しい病気、思い煩う対人関係、それらの硬い表皮を突き破り、私たちを「身上のさわりも事情のもつれも、ただ道の花として喜びの中に受け取れる」(『天理教教典』)存在へと開け放つ光。
元初まりに、親神様は「陽気ぐらし」という壮大な抱負を抱かれました。それは今なお、この世界と全人類を包み込んでいます。
可児義孝