自らの良心に忠実で他人を思いやる「忠恕」- 日本史コンシェルジュ
2024・2/21号を見る
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戦前戦中と、慶應義塾の塾長を務めた小泉信三は、昭和20年8月15日の昭和天皇の玉音放送を、病院のベッドで聞きました。最愛の息子と多くの教え子を戦争で失ったうえに、自身も東京大空襲で大火傷を負ったからです。
このとき11歳の皇太子明仁親王(現在の上皇陛下)は、疎開先の奥日光でご自身の決意を綴られました。
「どんな苦しさにも耐え忍んでいけるだけの粘り強さを養い、もっともっとしっかりして明治天皇のように皆から仰がれるようになって、日本を導いていかなければならないと思います」
戦後、信三は親王の教育係に抜擢されました。新たに制定された日本国憲法のもとでは、天皇は「日本国の象徴」です。「象徴」とは何なのか、若き明仁親王と信三の挑戦が始まります。それは、新時代の皇室の在り方を模索する、茨の道でもありました。
学生時代に軟式テニスの選手として活躍した信三は、皇太子教育にテニスを取り入れました。当初はボールを自ら拾おうとはなさらず、周囲の人が拾うのを当然のこととされていた親王が、やがてボールを自ら拾ったり、負け試合の後は審判を買って出たりするなど、皇太子教育は実を結びつつありました。
しかし、問題は「象徴」としての在り方です。手探り状態が続くなか、信三は原点に立ち返りました。彼の原点とは、福澤諭吉の存在です。福澤の著書『帝室論』に、信三はヒントを見つけました。この中で福澤は「帝室(=皇室)は 政治から距離を置くべきだ」と主張。そのうえで帝室を、ある言葉で例えました。
「帝室は万年の春であって、国民にとって、悠然として和やかな気持ちになるような存在であるべきだ」
ご皇室の存在を思うだけで、国民の心に春風が吹く――。そんな皇室のあるべき姿を、信三は『帝室論』の講義を通して明仁親王に伝えたのです。
平成4年の記者会見で、天皇陛下(現在の上皇陛下)は、ご自身のお好きな言葉として「忠恕」を挙げられ、その意味を「自分の良心に忠実で、他人のことを思いやる精神」とご説明なさいました。これこそが、信三の教えでした。
平成の30年間は、「国民の象徴としての天皇」への道を、時に迷い、時に傷つきながら陛下が歩んでこられた歴史であり、陛下の体現なさる「忠恕」により、国民が春風に包まれた、かけがえのない時代でもあったのです。