日常の中で真実を尽くす – 視点
日本人は大の風呂好きである。季節を問わず、風呂でゆっくり温まることは、その癒やし効果も相まって、至福の時間と感じる人は多いだろう。
江戸時代、都会を中心に公衆浴場や銭湯などの営業が始まった。当時は多くが混浴で、当然、子供も男女を問わず親と一緒に入っていたという。
現在、もちろん男女は分かれ、異性の子供と一緒に入浴できる年齢も法令で整備されつつある。それでも親子が風呂に入る機会は、子供が小さいころなら自宅で、旅先の宿では家族風呂で、おぢば帰りの際は詰所の浴場で、父親と息子が、母親と娘が共に入ることがあるだろう。
ところで、教祖が、徒歩での長旅をしてお屋敷へ帰ってきた信者を温かく歓迎され、風呂に入るよう促された逸話がいくつかある。
松村さくは「たちやまい」に罹り、おぢばへお願いに帰ってきた。教祖は、長患いと熱のためにさくの頭髪にわいた虱を一匹ずつ取り、さらに風呂を沸かして、垢づいたさくの身体を綺麗にお洗いくだされた(『稿本天理教教祖伝逸話篇』23「たちやまいのおたすけ」)。
また3年間、病の床に臥していた山本利三郎が、死に瀕した状態で帰ってきたとき、「早く、風呂へお入り」と促され、利三郎はそんなことができる容体ではなかったのに、かえって苦しみは去り、痛みは遠ざかって、教祖から頂いたお粥を3杯、おいしく頂いた(同33「国の掛け橋」)。
また、「おさしづ」の中では「風呂場の処もすっきり洗い、綺麗にして焚いて居る心、皆それ/\一つの心に頼み置こう」(明治25年2月18日)とあり、風呂の掃除や風呂焚きにも心を込めるよう促されている。
こうした逸話や「おさしづ」を見てみると、教祖は私たちに、身近な風呂を題材に、病む人をたすける心のありようをお示しになり、日常生活の中で真実を尽くす大切さを教えてくださっているように思う。風呂に入る体験には「火水風」のご守護も詰まっている。洗うときも、焚くときも、入るときも、天然自然の恵みへの感謝の念を忘れずにいたいものだ。
そして常日ごろの入浴から、また、おぢば帰りで詰所の浴場を利用する機会などに、リラックスした雰囲気のなか、親子の親密な語らいを通じて信仰を伝える機会にしたいものだ。
(永尾)