神苑を照らす月光 成人の旬と将来の姿を見据え – 逸話の季
9月です。虫の音に誘われて、夜空を見上げる機会が増えてきました。この時季の楽しみの一つは「中秋の名月」です。旧暦8月15日(十五夜)の月を愛でる風習には、かなり長い歴史があります。古からこの日の夜空を見上げた人々は、初秋の澄みきった空に浮かぶ月に魅了されてきたのでしょう。
今年は9月10日の満月を、次の日の朝づとめへ向かう途中で楽しみました。大いなる自然の営みにふれると、この世界が親神様のご守護に満たされていることを肌身に感じます。
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明治14年9月、飯降伊蔵の妻おさとは、かねてから、教祖にお屋敷へ帰るように促されていた夫よりも先に、二人の子供を連れてお屋敷へ移り住みました。
その際、地域の人たちが親切にしてくれる旨を申し上げ、引っ越しを躊躇するおさとに対して、教祖は「人が好くから神も好くのやで。人が惜しがる間は神も惜しがる。人の好く間は神も楽しみや」と仰せられます。さらに、子供二人の身上を鮮やかにご守護いただいて、お屋敷に住まわせていただくことになりました。
(『稿本天理教教祖伝逸話篇』「八七 人が好くから」)
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歴史の始まる以前から、人間は、月の満ち欠けや太陽の軌道の変化、夜空の星座の動きを観察して季節の変化を把握し、それらの知識を暮らしに生かしてきました。
天と地の間に存在する生命には、生育や変化に適した旬があります。とはいえ、種まきや田植えの時季を見極められるのは、稲の生育を見守る“育て主”だけでしょう。子供の成人を願う教祖には、いつも人の運命が伸び育つ旬が見えておられたのではないでしょうか。
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教祖に「人の好く間は神も楽しみ」と諭され、お屋敷へ移り住んだ飯降家の方々は、この先の道の発展を支える大きな礎となりました。やはり教祖は、成人の旬と将来の姿を見据えて、運命を切り換える機会を与えられたのでしょう。そして、「人が好くから神も好く」という教祖のお言葉は、何よりの誉れであったに違いありません。ここには、陽気ぐらしを目指すようぼく一人ひとりが、生活の中で求めるべき理想が語られているような気がします。
文=岡田正彦