教史再彩“道のさきがけ”を今に – 「昭和普請」献木に尽くす誠真実
モノクロームの教史の1シーンが、AIによって今によみがえる。その彩色された世界からみえてくるものは――。
昭和7(1932)年の『天理時報』5月5日号2面の中段に「高知の献木」と題する記事が載っている。
「去月二十七日午後二時半頃、高知大教会では献木を八台のトロッコに積んで(丹波市駅)側線より本部の倉庫に献納した」
報告記事は僅か数行に過ぎないが、普請に使う巨木を高知の山奥から探し出し、海路を経ておぢばに献納することは、並大抵の苦労ではなかった。
高知大教会が献木活動に取りかかったのは、90年前の昭和6(1931)年1月12日。両年祭(教祖50年祭、立教100年祭)に向けた年祭活動が打ち出されたころであった。
「昭和普請(教祖殿新築、神殿増改築)」に向けて、高安大教会が高知県内で巨木を探しているとの話が、島村國治郎・高知大教会2代会長(当時44歳)の耳に入った。島村氏は、松村吉太郎・高安大教会初代会長(当時63歳)に直談判した。
「どうかこの御用の仲間入りをさせてください」
松村氏は一旦は申し入れを断ったが、島村氏の熱意にほだされ、共同で献木活動に取り組むことになった(のちに髙知大教会に一任)。
ところが、それからの道のりが厳しかった。実は、献木活動に取りかかった時点では、献納する材木の当てはなかったのである。
早速、高知県の山林を管轄する営林局と交渉を始めたが、普請に必要な桧材40本のうち、大きさが適する材木は2本しかないとのこと。
そこで2〜3人一組の探査班を四つ組織し、独自に探査活動を始めた。やがて、1カ月余りで百数十本の巨木が見つかったとの報告が入った。
しかし、営林局の見立てと大きくずれていたため、再度、詳細に調査したところ、材木の高さ、搬出の便、節の数などを考慮すると、普請にふさわしい桧材は10本ほどに留まった。
以後、探査活動は紆余曲折をたどったが、しばらくして、当初必要とされた材木はなんとか見つかった。とはいえ、営林局との払い下げ交渉の難航、経費の増大、材木の追加要請、信者への働きかけなど、その後も献木活動は困難を極めた。しかも、当時は昭和恐慌のさなかで、大卒の就職先がないほどの不況だった。
迎えた7年4月。高知県東部の魚梁瀬地区から切り出された材木は、田野海岸から運搬船で大阪港へ。鉄道運送で丹波市駅側線に到着した。
27日の「献木曳き込みひのきしん」には4,000人が参加。8台のトロッコ(桧材用3台、栂材用5台)を500人ずつで曳き、教会本部の倉庫に献納した。献木探査の歌を歌いながら老若男女が巨木を曳く光景は、実に勇壮だったという。
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写真は、7年10月から始まった第2回献木活動の一場面である。髙知大教会の献木活動は、9年8月まで高知や長野など各地で行われ、計905本の材木を納めた。
また「昭和普請」では、数多くの直属からも、材木のほか礎石や屋根瓦などの建築資材がお供えされた。
現在、南礼拝場に24本、教祖殿御用場に16本の大きな丸柱がそびえ立つ。木肌に触れながら天井へと伸びる柱を見上げると、誠真実をもって普請に取り組んだ先人・先輩たちの息吹が感じられる。