天理時報オンライン

「この道は、知恵学問の道やない」――本当に尊い生き方とは


教祖は親里ぢばで子供の帰りをいまもお待ちくださっています

河内国教興寺村(現・大阪府八尾市)の松村吉太郎さんは、幼いころは信仰熱心な両親に連れられ度々お屋敷へ帰っていましたが、長ずるにつれ、生来の利発で理屈っぽい性格から、自分の知識や理性で判断して不合理と思える信仰に背を向けるようになっていきました。ところが明治十九年、二十歳の春に肋膜炎を患い、病が悪化して万策尽きたとき、村内の講社の人から諭され、本気で信仰する心を定めておたすけを願い、ご守護を頂きました。
以来、吉太郎さんは熱心に信仰するようになり、村役場に勤めながら、土曜日の午後にお屋敷へ帰り月曜日の未明に河内に戻るのが常となりました。そんな明治十九年夏のこと。多少、学問の素養などもあった吉太郎さんの目には、お屋敷に寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、あまりにも粗野な振る舞いなどが異様に思われ、軽侮の念すら感じていました。
あるとき、教祖(天理教教祖・中山みき様)にお目通りすると、教祖は、「この道は、知恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」と仰せになりました。このお言葉を承って、吉太郎さんは自分が高慢であったことを心の底からさんげし、ぢばの理の尊さを心に深く感銘したのでした。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』一九〇「この道は」から)
教祖は、人間の親なる神様のお心そのままに、子供であるすべての人がたすかる道をお教えくださいました。当時、お屋敷に詰めていたのは主に近在の農家の人たちでしたが、教祖にたすけられたご恩を忘れず、人に笑われ謗られながらも、欲を忘れて御用に勤しんでいました。吉太郎さんは、自分が軽侮していたこの人たちの姿こそが、本当に尊い生き方だと気づいたのでしょう。お屋敷にある「ぢば」は、人間創造のふるさと元なる地点であり、人類の故郷です。教祖は、いまも親里ぢばで子供の帰りをお待ちくださっています。

※『稿本天理教教祖伝逸話篇』……信仰者一人ひとりに親心をかけ、導かれた教祖のお姿を彷彿させる二百篇の逸話が収められていて、教理の修得や心の治め方について学ぶことができます。