秋の気配が漂う空に 同じ思いを共にして – 逸話の季
8月のつごもりです。暦の上ではとうに「立秋」を過ぎましたが、まだ厳しい残暑が続いています。とはいえ、たわわに実った庭の栗の実は“秋近し”を告げています。数年前に種を蒔き、背丈ほどの高さに成長したモミジの葉も、少しずつ赤みを増してきました。
人の営みや思惑に関わりなく、自然の時計の針は止まることなく巡っているようです。
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明治19年夏、平野楢蔵が布教のために家業を廃して谷底を通っているとき、夫婦とも心を定め、平野は単衣一枚に浴衣一枚、妻のトラは浴衣一枚ぎりになって、おたすけに回っていました。
そのころ、お屋敷へ帰らせていただくと、教祖は「この道は、夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた。さあ、一年経てば、打ち分け場所を許す程に」と、お言葉を下されました。
(『稿本天理教教祖伝逸話篇』「一八九 夫婦の心」)
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夫婦は横を向いてお互いを観察し合うより、同じ目標に向かって手を取り合い、前を向いて進むほうがつまずかずに歩んでいける――。結婚式のスピーチなどで語られる言葉です。
しかしながら、夫婦生活を長年続けていると、どうしても横を向いて、目に映る相手の姿を気にしてしまいます。なかなか前を向けない日には、「いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた」と、教祖に認めていただいた「夫婦の心」を模範にしたいものです。
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自分の意思は、自分である程度コントロールできます。しかし夫婦の心を合わせることは、自分一人ではできません。また、夫婦として連れ添ってきても、相手の本当の気持ちは、自分の心のようにはっきりと知ることはできないのです。
還暦を迎える今日まで、さまざまな出来事に一喜一憂しながら、いつも夫婦揃って神殿へ足を運び、共に祈りを捧げながら長い旅路を歩んできました。たとえ相手の心の内を知ることはできなくても、同じ思いを共にして前へ進むことは可能です。人生の晩年になって、価値観を共有するパートナーと毎日を過ごせることは、何よりの幸せなのかもしれません。
文=岡田正彦