第2部の始まりに寄せて やわらかく温かみのある世界へ – ふたり
作者 片山恭一
第2部では、青年になったカンの話を書こうと思っています。高校を卒業したカンは、就職をせずにバックパックを背負って世界を放浪します。そのなかで少しずつ言葉を取り戻していく。そういうことって、実際にあるみたいです。重度の吃音で苦しんでいる人が、英語や中国語では普通に話せるとか。
郷里に戻ったカンは、父が亡くなった海でサーフショップとレストランを兼ねたような店をはじめます。そのかたわら趣味で海の写真などを撮ってSNSに投稿したりしている。写真にちょっとした文章を添えたりもします。折節に自分の学習障害について触れることもありました。小学生のころ言葉が喋れなかったとか、算数がまったくわからなかったとか。
これが少しずつフォロワーを増やし、彼のところに不登校の子どもを連れた親がやって来るようになります。カンは子どもたちにサーフィンを教えたり、美味しいものを食べさせたり、一緒に農業をしたりする。こうして彼のまわりに幾つもの小さな「ふたり」が形作られていきます。第1部で活躍したツツも、大人になって再び登場する予定です。
障害の問題をどう考えればいいのか? 英語で「disorder」って言いますよね。「order」は秩序や規律という意味です。命令って意味もあります。「dis」は欠如や失敗を意味する接頭語です。つまり秩序や規律を欠いた状態、それらの構成に失敗して命令に従えない現状を「障害」と呼んでいるようです。このまなざしが冷たいとぼくは思います。固いと言ってもいいかもしれません。もっとやわらかなまなざしで世界を包むことはできないでしょうか?
秩序といい規律といい、いずれも人為的なものです。歴史のなかでつくられてきたものです。それに従えと命ずるのが、法であったり社会であったりします。なんとなく上から目線ですよね。しかも当たり前と思われているものが正しいとはかぎらない。たとえば「注意欠如多動性障害(ADHD)」と呼ばれているものは、狩猟や採集によって暮らしていたころの人たちにとっては、食料を集めたり危険を回避したりするために不可欠な能力だったかもしれません。長い人間の歴史のなかで、ほんの一瞬を切り取って「障害」とか「病気」とか言っている可能性が高いわけです。
どんな困難も固有なもので、けっして一般化はできません。そして一人ひとりが抱える困難のなかには、かならず「ふたり」という契機が含まれています。ここを言葉でうまくひらくことができれば、もっとやわらかく温かみのある世界が構想できるのではないか。そんな世界に向けて、第2部を書いていきたいと思っています。
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