滴る緑に勇みを頂く お言葉に見いだす希望の光 – 逸話の季
新緑の季節になりました。
かつて子供たちが拾ってきた、ドングリや木の実から育った樹木たちは、瑞々しい新芽に覆われています。枯れたと思ってあきらめていた山椒の木にも、新しい枝が伸びてたくさん花が咲きました。とても良い香りがします。目を閉じて耳を澄ますと、方々からいろいろな鳥の声が聞こえてきます。五感のすべてに生命の躍動を感じる季節です。
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慶応4(1868)年5月、大雨が降り続いて川が氾濫し、山中忠七の家では、田地が一町歩程も土砂に埋まってしまうという大きな被害を受けました。
このとき、周囲の村人たちに「あのざまを見よ」と罵られた忠七は、早速お屋敷へ帰って教祖に伺います。すると教祖は「さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで」と、お聞かせくださいました。忠七は大難を小難にしていただいたことを、心から親神様にお礼申し上げました。
(『稿本天理教教祖伝逸話篇』「二一結構や、結構や」)
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手塩にかけた田畑に被害を受けたにもかかわらず、「結構や、結構や」というお言葉を素直に受け容れられたのは、教祖の仰せであることはもとよりですが、教祖と山中忠七の間に深い信頼関係が築かれていたからでしょう。同じ出来事に対する周囲の人たちの「あのざまを見よ」という評価と、「さあ/\、結構や」という教祖のお言葉との差異が際立つ逸話です。たとえ、人間の目には不幸に映る出来事であっても、親神様・教祖にとって全く別の意味があるのです。
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人生行路には「なぜ、どうして」と自問せざるを得ないような場面が必ずあります。たとえ人間の思案では、どんなに考えても理由を見つけられないことでも、教祖を通して伝えられた親神様の教えをもとにその意味を求めていけば、きっとまた前を向いて一歩を踏み出すことができます。
わたし自身、幾度もこうしてたすけられてきました。だからいま、先の見えない困難に直面しているあなたも、必ず教祖のお言葉に希望の光を見いだすことができるはずです。
文=岡田正彦
親里の5月の様子が動画で見られます