騎虎の勢い – 世相の奥
2023・9/20を見る
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もう、何年前のことになるだろう。夏の終わりごろに、私は阪神甲子園球場へおもむいた。野球観戦のためである。すわったのは、外野のライトスタンドであった。
この座席を聞いただけで、野球好きにはピンとくるだろう。いちばん熱い阪神ファンの陣どる場所である。タイガースを応援する私も、そんな虎一筋という人びとのあいだにはいっていった。
その日は、阪神が勝っている。最終回の逆転打で、タイガースは勝利をもぎとった。それまでの劣勢を、最後にひっくりかえしたのである。ファンがいちばんよろこぶ、感動的なゲームではあった。
よほど、うれしかったのだろう。逆転の走者が本塁をかけぬけた、その時であった。私のとなりで試合を見ていた若い女性が、私にだきついてきたのである。
見知らぬ女性からしがみつかれた経験は、ほかにない。その一度だけである。私にとっては、衝撃的な一瞬であった。阪神の選手たちには、お礼をのべたいところである。
と言っても、若い娘さんとの抱擁がたのしかったという話ではない。そういう想いは、たとえあったとしても、公言をひかえたほうがいいだろう。ここでも、言葉はつつしみたい。私が披露しておきたい感銘は、べつのところにある。
第二次世界大戦で、日本は降伏を宣言した。8月15日はその終戦記念日である。アメリカでは、この告知が8月14日になされている。もちろん、アメリカの人びとはよろこんだ。当日は、各都市の広場や目抜き通りに、おおぜいの群衆がつどっている。たがいに、歓喜をわかちあうためである。
見知らぬ男女がいだきあったりもした。キスにおよぶ男女だっていたという。そのキスシーンを写したドキュメンタリーの映像も、知られている。私は、しかし、これらをうたがってきた。あざやかすぎる抱擁と接吻の構図に、やらせの疑惑もいだいてきたのである。
このうたがいを、甲子園でであった女性は、くつがえしてくれた。集団的熱狂の一瞬に、日常的な抑制の心はふきとびうる。そう反省させられた。彼女には、私の歴史認識をあらためてくれたことで、感謝をしておきたい。
まあ、私たちもキスにまでいたったわけではないのだが。
井上章一・国際日本文化研究センター所長