白髪の力 – 世相の奥
2023・10/25号を見る
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このごろ、私は髪をそめなくなった。今は、まったくの白髪である。それを、気にとめてくださるかたもいる。お仕事、たいへんそうですね、と。ご心配にはおよびません。私は若いころから白髪気味でした。黒ぬりをやめただけですと、そのつどこたえている。
毛染めをしなくなった理由は、たんじゅんである。めんどうくさいから。ただ、それだけである。じっさい、髪の毛は日々のびる。頭皮と近い部分、つけねのところが、すぐに白くなる。そのたびに手入れをするのが、わずらわしい。もう白髪でいいと、そうふんぎりをつけたしだいである。
この決断は、ルッキズム批判という近年の潮流にも、あとをおされている。人を見てくれで判断するのはよくない。外見にとらわれるルッキズムは克服しよう。そういうかけ声を、私なりに、もっともなことだとうけとめた。そのうえで白髪生活にふみきったというところもある。
しかし、毛を白くして、気がついた。まわりの私を見る目が、以前とちがっている。やはり、前よりはおじいさんくさくうつるせいだろう。電車のなかで席をゆずられる機会が、まちがいなくふえた。
私の目前にすわっている乗客が、席をかわろうかどうかで、ためらっている。そんな人も、見かけるようになった。吊り革をつかむ私は、反射的に考える。自分の白い毛が、目の前にいる人を逡巡させている。この毛には、人の心へはたらきかける力がある。私は、今ある種の権力を行使しているのだ、と。
べつに、そういう神通力を発揮したくて、髪を白くしたわけではない。だが、毛の白さに世間は、なにほどかとらわれる。白髪の年寄りには、配慮をしたほうがいい。そういうルッキズムが、電車の車中にただよっていることを実感した。
いっぱんに、見かけで判断を左右することはよくないとされる。しかし、年嵩と見える人に親切心をおこすことも、いけないのだろうか。あの人は、おつかれの様子だ。こちらの女性は、どうやら妊娠しているらしい。人はそんな外見にうながされて、行動をおこすことがある。それを、いちがいに悪いとは、言いきれまい。
薄毛の男からは、言いかえされた。薄毛は白髪ほど同情されない、と。ルッキズムのあつかいは、むずかしい。
井上章一・国際日本文化研究センター所長