理想と現実のはざまで – 視点
2023・11/29号を見る
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パレスチナ・ガザ地区におけるイスラエルとハマスの対立が日を追うごとに深刻化している。いやむしろ、ガザ地区におけるイスラエル軍の攻撃が深刻な「人道的危機」を引き起こしていると言ったほうが適切かもしれない。
もちろんイスラエル側とハマス側の双方に、それぞれの主張がある。それは、長く複雑な歴史的経緯の中で深まった対立である。
いずれにせよ私たちは、テレビやSNSを通して、現在ガザで何が起きているのかを知ることができる。それらの情報を通じて、子供を含む多くの無辜の命が無残なかたちで失われるさまを、否応なく目にすることになる。
だが、現実的に人間は、こうした過酷な情報にずっと関心を持ち続けることは容易ではない。確かに、現地の悲惨な現状を垣間見れば、誰もが心を揺さぶられるだろう。思わず「可哀想に……」と呟いてしまうこともあるだろう。だが私たちは、再び現実の生活に引き戻され、自分自身の世界が関心の焦点となる。
そもそも一人の人間が”処理”できる情報量には限りがある。もとより、それは選択的なものであり、高じれば、「見たくないものは見ない」という、いわゆる「選択的ニュース回避」の状態になる。
こうしたことに加え、過酷な状況に置かれた人々に”共感”はできても、それが過ぎると、今度はわが身がつらくなる。医療や介護の現場で専門家が陥りがちな、いわゆる「共感疲労」である。
それでもなお、それぞれの仕方で、いま世界で起きていることにこまやかに関心を持ち、彼(女)らの痛みや悲しみを想像してみることには大きな意味があるはずだ。
つとめの完成を急き込まれ、陽気ぐらし世界の実現を望まれている教祖は、そのひながたの道を、まさに理想と現実のはざまの只中で歩まれた。
戦争や紛争によって突きつけられる理想と現実の落差に時に落胆しつつ、なおも「一れつきょうだい」の教えを信じ続けることこそが、せめて私たちようぼくが歩み得る、微力ながらも大いなる可能性を秘めた道であるように思われる。(島田)