互い立て合いの先にある和平 – 視点
2023・12/13号を見る
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人質解放のための束の間の停戦を経て、パレスチナ・ガザ地区での戦闘が再び始まった。多数の犠牲者が出ていることに胸が痛む。
イスラエルとパレスチナの争いは長年にわたる。しかし、今からちょうど30年前には両者が和平に向けて歩みつつあった。1993年のオスロ合意では、イスラエルとパレスチナの共存が目指され、双方の指導者がノーベル平和賞を受賞した。
ところが、あるとき、イスラエルの政治家が「平和の使者だ」と言って、大勢の警察官に守られながらユダヤ教の聖地「嘆きの壁」からイスラム教の聖地「岩のドーム」をひと回りして帰ってきた。それが礼拝中のイスラム教徒の怒りを買い、暴力の応酬が再燃する引き金となった。どのような意図があったにせよ、異教徒に対する尊敬の念を欠く行為と映ってしまったのは、大変残念なことである。
この事件から思い起こされるのが、元治元年(1864)の大和神社の一件である。つとめ場所の棟上げに勇んだ人たちが、山中忠七宅へ向かう道中、同社の前を通りがかったとき、「神前を通る時には、拝をするように」との教祖のお言葉を思い出し、太鼓などを打ち鳴らして「なむ天理王命」と繰り返し、声高らかに唱えた。それが、同社の祈祷を妨害したとして、厳しく咎められた(『稿本天理教教祖伝』第四章「つとめ場所」)。この節は、人々の誠真実を見定めるための「話の台」であるとともに、他宗教に対する敬意と慎みを教えられているようにも思う。
教祖は、「何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』170「天が台」)とも先人に聞かせられたように、たとえ異なる道を通っていても、親神様から見れば等しくわが子であり、一れつきょうだいとして相手を尊重することを教えられている。世界各地の紛争を治めるのは容易ではないが、和平に向けて一人のようぼくにできることとして、互い立て合いたすけ合いの心を日ごろから培いたい。
(三濱)