雨風いとわず寝食忘れ ご恩報じに神名を流す 鈴木よね(上) – おたすけに生きた女性
2023・12/13号を見る
【AI音声対象記事】
スタンダードプランで視聴できます。
生来、信心深かったよね。幼少のころ、実家に一夜の宿を乞うた僧が「この子は千人の人に拝まれる人相をしているから大事に育ててやってくれ」と言い残したという
今回紹介するのは、鈴木よねです。安政4(1857)年、静岡県駿東郡大岡村に住む渡辺佐平の次女として誕生。明治13(1880)年、のちの嶽東大教会初代会長・鈴木半次郎と結婚して、1男を授かります。息子の身上をきっかけに入信し、神名流しこそ至高のご恩報じと固く心を定め、ひたむきに布教一条の道を歩みました。
長男の身上全快を祈り
夫・半次郎は安政元年、静岡県駿東郡大岡村の農家の長男として誕生。明治13年、よねと結婚します。半次郎27歳、よね24歳でした。半次郎は立身出世への思いから家業を弟に任せ、土木事業に身を投じます。
三島から箱根へ通じる石畳の旧街道。箱根離宮の工事に携わる夫のために、よねは馬の背に食糧などを積んで山道を往復した。この健脚ぶりが、のちの布教伝道に生かされる
よねは幼少から寺社参りが好きで、この地方で参らぬところはなかったといいます。農家に育ち、男性に劣らず農事についても、ひと通り身につけていました。たいそう健脚で、半次郎が箱根離宮や谷峨トンネルの工事に従事していた際には、馬を引いて、遠路もいとわず40キロ先の沼津へ赴き、食糧や必要な物資を馬の背に乗せ、飯場へ運ぶのがもっぱらでした。
明治19年に長男・平作を授かります。しかし〝きょうふうの虫〟(発作性の激しいひきつけ)という持病を患い、骨と皮ばかりに痩せ細ってしまいました。
明治21年春、半次郎は草津線の敷設工事に関わることになり、三雲(現在の滋賀県湖南市三雲)へ宿を移します。同年秋、大岡に残っていたよねは、平作を背負い、半次郎を訪ねて三雲にたどり着きます。その道中も、最寄りの寺社には必ず立ち寄り、平作の全治を祈ったのでした。
半次郎たちは、ある家に間借りをして一緒に暮らし始めます。人のためなら命を投げ出す半次郎でしたが、わが子の病気にはあまりに無力で、なすすべもなく、不安と焦燥感が募りました。よねは来る日も来る日も看病のため一日として心休まる日はなく、途方に暮れていました。
ある日、よねは、井上すてから声を掛けられます。すては、夫・佐市が不治といわれた3年越しの病をたすけていただき、その喜びからにをいがけに出ていました。よねは不思議な神様のお話にすっかり魅せられ、かつてない感動に包まれて、お話を聞くごとに心に力が湧いてくるのでした。
よねは、暇をみては井上家を訪れ、むさぼるように神様のお話に耳を傾けました。教祖ひながたの話に涙を流し、その一つひとつを宝のように大切に胸に抱き、信仰の喜びを日ごとに深めていきました。
しばらくして半次郎たちは、井上家に間借りをすることになります。よねは神様の拝み方やおつとめを教わり、平作の全快を一心不乱に祈り続けたところ、平作の身上は次第に快方へ向かっていきました。
心を定めて夫の改心を願い
ある日、佐市から、さらにご守護を頂くには、半次郎に神様のお話を聞いてもらうよりほかにない、と諭されます。それまでよねは、何度も夫に頼みましたが、「話でたすかるはずがあるものか」とにべもなく、相手にもしてもらえませんでした。
どうすれば頑固一徹な夫に聞き分けてもらえるだろうかと思い悩み、神様にお願いするよりほかに手だてはないと思い至ります。それ相応の真実を供えなければと、生涯かけた実行を神様にお誓いしました。よねがどんな心定めをしたのか、ついに語られることはなかったのですが、これ以後の道すがらをたどると、明らかになっていくように思います。
数日後、よねが半次郎に「一度、先生に会ってください」と気軽に声を掛けると、「そうだなあ、雨でも降って仕事が休みになったら会ってもよい」と、予想外の返事でした。
半次郎は、このときのことを「あのころ、話や信心で病気がたすかるとは、とてもじゃないが信じられなかったが、それにしても、子供が目に見えてだんだんと元気になるのが不思議でならなかった。ちょうど自分の胃の具合もおかしかったので、一度、先生とやらに会って、どんな話か聞いてみようかと思った」と述懐しています。
佐市は、自身がたすけられた事実を台に「かしもの・かりもの」の教理を諭し、子供が病む種は親にあると諭しました。そのとき半次郎は、自身の過去を振り返って慄然としたといいます。
後日、この日のことを回想して「百里離れていても、俺がどういうことをしてきたかということが分かるというのは、神様よりほかにない。人間の知恵、力で及ぶものでない。俺はこれまで人様を苦しめてきた。その償いをしなければ、子供の病気はたすからぬ。だんだんとお話を聞くうちに、人をたすけるよりほかにたすかる道はない、と分からしてもらった」と語っています。
豪胆直情な半次郎は鮮やかに心を入れ替え、信仰の道に入ることを決心しました。
それからまもなく、半次郎は所用で出掛けた折に、幸いにも難を逃れます。半次郎は神様のお働きを見る思いがして、一段と教えの理が心に治まり、佐市をおたすけした斯道会第六十四号講元・田代兵蔵のもとへ再三再四、運ぶまでになります。それに伴い、平作も見違えるように元気になりました。
着の身着のままたすけ一条に
明治22年、半次郎ら親子3人は初めておぢばへ帰り、「証拠守り」を頂きました。三雲へ戻ると、半次郎の背中に瘍(はれもの)ができ、さらに工事現場で労働者同士の争いが起こりました。二つの節が立て合ったことを受け、半次郎は神一条に歩むことを決意。完成目前の工事も人に任せて急いで帰郷し、ご恩報じのため、たすけ一条に踏みだします。
数日後、村の神社で上棟式が行われた際、梁から「ちょんな」(大工道具)が落ちて、青年が頭に大けがをします。そこに居合わせた半次郎は急いで家へ帰り、「お息の紙」を持参してけが人の傷口に貼り、「なむ天理王命」と大声で必死にお願いすると、出血も痛みも治まるという不思議なご守護を頂きました。半次郎の打って変わった姿と、翌日には青年が現場へ出てきた姿を見た村人たちは大いに驚きます。噂は口から口へ伝わり、おたすけを願う人が相次いでやって来ました。
よねは「教祖の御苦労がいつも胸にささっていて離れない」と常に口にし、教祖をお慕いする一念は、神名流しへと駆り立てました。雨風もいとわず、寝食を忘れ、寸暇を惜しんで親族や知人はもちろん、道の辻で会う誰彼を問わず神名を伝えました。ひとたび家を出ると、夫や息子のことも忘れて、日帰りのはずが泊まりになることも少なくありませんでした。人の陰口はもとより、愚痴や不足を一度も口にせず、たんのう一条で通りました。
にをいを掛けられた人、噂を耳にしてたすけを求める人が、次々に半次郎のもとを訪れました。半次郎は教えられた通り、わが子をたすけていただいた話を台に、身の内かしもの・かりものの話、いんねん一条の話を真剣に取り次ぎました。
こうして半次郎たちは、食事する暇すらなく、お息の紙と御供を頼りに、話一条でおたすけに励みました。とはいえ、いささかの蓄えもなく、着の身着のままでたすけ一条に歩み始めたゆえに、すぐさま生活に支障を来すようになります。寄り来る人々に心を尽くせば尽くすほど、負債は膨らむのでした。
次回、よねはどのように困難な道中を通り抜け、布教一条に生きていったかを見ていきたいと思います。
(つづく)
文・松山常教(天理教校本科実践課程講師)