何不自由ない状況こそ – 道を楽しむ16
2023・12/20号を見る
【AI音声対象記事】
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岩手からおぢばへ向かう車中のことです。深夜、数人の教友と共に、福島と新潟を結ぶ磐越自動車道を走行していました。片側1車線が多いこの道路で、対向車線を走る特大サイズのトラックが中央分離帯を乗り越え、目の前に迫ってきたのです。片側1車線のため十分な逃げ場はありません。このままでは衝突してしまう。私は中央分離帯ギリギリまでハンドルを切りました。トラックも反対側に寄せ、ガードレールを擦り火花を散らしながら走ってきます。
「ああっ、ぶつかるっ!」
車内に響く叫び声。間一髪、サイドミラーにすら触れることなく奇跡的にすれ違いました。しばし放心状態。誰も声が出ません。危うく大難となるところ、結構にも無難にお守りいただいたのです。
日々のご守護は銘々の信心の賜物でしょうが、私はこのような自らの徳分以上のご守護を頂戴するたびに、親々が代を重ねて信仰の道を通ってくれたおかげでもあると実感しています。
それぞれの家には信仰の元一日があります。大病をたすけていただいたとか、大きな事情を治めていただいたとか、入信のきっかけはさまざまでしょう。ところが代を重ねるうちに、時として「先祖は神様にたすけてもらったんだろうけれど、自分は特にそんな経験がないから、いま一つピンとこなくて」とか、「私はいままで神様にたすけてもらうようなことがなかったから」とか、「いまは何不自由なく生活できているから、もう信仰しなくても」といった声を耳にすることがあります。
しかし、よくよく考えれば、「神様にたすけてもらうようなことがない」とは、身上もなければ事情もなかったということであり、そのような何不自由ない状況ほど有り難く結構な姿はないはずです。もし本当にそうであるなら、それは代々信仰してきたからこその”結構”ではないでしょうか。
また、神様にたすけていただいたにもかかわらず、単に奇跡やラッキーなことだと思い、ご守護に気づかない場合もあるでしょう。だからこそ日々、感謝して通ることが大切だと思います。
大きな節があろうがなかろうが、毎日こうして生かされていることそのものが親神様のおかげであると、お互いにあらためて肝に銘じたいものです。
中田祥浩 花巻分教会長