天理時報オンライン

ふるさとの星になった母 – あなたへの架け橋


星降る里の母と娘

北海道のほぼ中央部、雄大に流れる空知川の流域に芦別という町があります。内陸部に位置する盆地のため冬の寒さはとても厳しく、マイナス20度を下回る日もあります。ここに、豊かな森林が育む澄んだ空気と、周囲の光を遮るように囲む山々によって天然のプラネタリウムが創り出され、1988年に環境庁(当時)から「星空の街」に認定されました。キャッチフレーズは「星の降る里」。そして、ここは私の妻のふるさとでもあります。

芦別を含む空知地方は、かつて炭鉱で栄えました。明治から大正、昭和にかけて、財閥系の企業が次々と炭鉱を開いた影響で人口が急増。妻が生まれた昭和30年代前半の芦別市の人口は7万人を超え、町は大いに賑わったといいます。ところがその後、石炭から石油へと主要エネルギーが転換したことで炭鉱は次第に閉山となり、過疎化の一途をたどることに。それでも近年は、観光にも力を入れ、町は元気を取り戻しつつあります。

妻は高校卒業まで自然豊かなこの町で育ちました。父が早世し、兄家族は別に暮らしていたので母との二人暮らしです。高校卒業後は一時、町を離れましたが、4年ほどして芦別へ戻り、再び母との生活が始まりました。そんな幸せな母娘の間に入り込んだのが私です。しばらく遠距離の交際を続け、その後、母から引き剥がされるように遠く離れた名古屋へ嫁いできました。

結婚式は、北海道の親族も大勢駆けつけて盛大に行われ、母も喜んでいるように見えました。しかし、たった一人の娘を「馬の骨」によって遠くへ連れていかれた母の心情は、察するに余りあります。「寂しい」のひと言では表せないほど孤独で悲しくて、一人ぼっちの生活はさぞ、つらかったことでしょう。

寂しさと思いやり

結婚後、私たち夫婦には4人の子供が授かり、里帰りをするたびに、母は子供たちを最大限に可愛がってくれました。つらかったのは帰るときです。駅へ向かって歩いていく私たち家族を、こぼれる涙を拭きながら見送ってくれた母の姿は、いまも忘れることができません。

あれから30年余り。わが家では3人の娘が最近、続けて嫁に行きました。父親としてなんともいえない寂しさを感じたとき、ふと気づいたのが母の心情です。「こういう気持ちだったんだ…」と。

けれども、あの日の母の寂しさには到底及ばないでしょう。なぜなら、娘たちの嫁ぎ先は車でせいぜい2〜3時間の場所ですし、いまは携帯電話もLINEもある時代。そう思うと、一層あの日の母の涙が頭をよぎり、胸がいっぱいになります。

当時の私は、とてもそんなところにまで気持ちが及びませんでした。それどころか、私のほうが母に気を使わせていた部分もあります。女手一つで子供を育て上げた北国の母は強く、寂しいそぶりは決して見せない人でした。若いころから苦労を重ねてきた母の、心の広さと優しさを、今さらながら感じている昨今です。

「相手の気持ちになって考えよう」とは、日常よく使われるフレーズですが、言うは易く、行うのは本当に難しいと思います。実際には不可能なのかもしれません。しかし、そうであっても、ひたむきに寄り添い続け、「少しでも、少しでも」と相手の思いを考えていけば、次第に心の垣根が低くなって、気持ちが通じ合う日がやって来る。それが思いやりを持つということだと、母の背中が教えてくれたような気がします。

そんな母も19年前に天上へと旅立ち、ふるさとの星となりました。雪が解けて芦別に遅い春が来たら、可愛がってくれた孫たちと、初対面となる曾孫も連れて、お墓参りに行きたいと思います。

「星の降る里」で思い出を語り合えば、きっと母も喜んでくれるでしょう。帰るときには、やはり寂しい思いをさせるかもしれませんが、今度は大丈夫。たくさんの星の仲間に囲まれて、笑顔で見送ってくれるに違いありません。


安藤正二郎(天理教本則武分教会長)
1959年生まれ