ひながたをたどる努力続け 新たな気持ちで歩み出そう – 婦人会第108回総会 真柱様メッセージ(要旨)
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かねて私たちは、教祖の年祭を成人を進めるための旬としてつとめてきた。そして、このたびの140年祭を目指す年祭活動については、それぞれが成人のための目標を立てて歩みを進めようと申し合わせをした。年祭は滞りなく勤め終えたが、お互いの通り方はどうであったのか、しっかりと振り返る必要があると思う。
自らの通り方を振り返る
いまは仕切り直しのとき
定めた目標に向かって着実な歩みを重ねて、充実感を持って年祭の日を迎えた人、目標こそ立てたものの、十分に動くことができなかったと反省している人、年祭に対していま一つ積極的な気持ちになれずに終わったと振り返る人など、いろいろな方がおられることだろう。
私たちは、教祖の年祭のたびごとに「三年千日、三年千日」と言葉に出して年祭活動に取り組んでいる。しかし、三年千日という言葉の本来の意味を考えてみると、年祭のときに限らず、私たちが教祖をお慕いして、お付けくだされた道を通るに際しては、50年のひながたの道を、同じ年限通らずとも、その50年のうちの3年、いわば千日の間だけでもひながた通りに教祖の教えられた道を通ったならば、50年通ったのと同じようにお受け取りくださる、ということになるだろう。
また、「千日の道が難しのや」(おさしづ明治22年11月7日)とお示しくださるように、一度はひながたの道をそのままにたどらせてもらおうと志しても、たとえ千日でもそれを続けることは容易なことではない。ともすれば、うっかり惰性に流れたり、自分勝手な思案にとらわれてしまったりして、初志を貫徹することができなかったということは、お互いに経験があることだと想像する。その初志を忘れることなく歩み続けるには、仕切ってどうでもつとめさせていただくのだ、という強い気持ちで心を定めて通る努力が必要なのだと思う。
これまでから、三年千日と仕切って年祭活動に取り組んできたその根底には、教祖の年祭に向かう3年間を一つの区切りとして、教祖ひながたの実践を呼びかけ、お互いがその努力を重ねることを通して、その間はひながたの道をお残しくだされた親心を決して忘れることのないように一生懸命歩ませていただこう、という考えがあったのではないかと思う。
そして、仕切りのときである年祭の日が過ぎ去ったならば、三年千日の通り方を振り返り、新たに仕切り直しをすることが大切なことである。自分の思案や行動が親神様の教えに沿っていたか、教祖のお心に適っていたか、ということを振り返ることだ。反省点が多いのであれば、改めるべきところを改めることを考えればいいだろう。また、自分としては頑張れた、という場合でも、それに甘えることなく、心を引き締め直して、さらに前に進むことを心がけることである。
いまはこのように、お互いが仕切り直しをするべきときだと考えるのである。それをすることなく、次の打ち出しがあるまで口を開けて待っているようなことになれば、それこそ3年前に逆戻りをしてしまうことになりかねない。
原典に親しみ教えを求め
身近なところから実行を
ところで、婦人会は道の台としてのつとめを果たすことを目指して、普段は活動を進めていると思う。婦人会の道の台たる所以は、産み育てという女性の徳分を忘れず、世上の常識に流されず、どこまでも教えに素直に歩みを進めるところにある。その努力を積み重ねることによって、会員が成人させていただくのが会活動の意味である。
言うまでもなく、ここでいう成人とは、体が成長することを指すのではない。教祖のお心にだんだんと近づいていくように、心が成長し、信仰が深まっていくことを指すのである。ひながたをたどり、成人のご守護を頂くには、大事なことが二つあると思う。
一つは、原典に親しみ、教えの本筋、をやの心をより深く求めることだ。教祖がお残しくだされた原典があるおかげで、お姿をおかくしになられてどれだけ年限が経っても、私たちは直接教祖のお心にふれることができる。
また、二代真柱様は原典をもとに教典を編纂され、より教祖に近づくことができるよう『稿本天理教教祖伝』を編まれた。前真柱様の時代になって、『教祖伝逸話篇』も出版された。こうした書物に日ごろから親しみ、直にをやの思召にふれるように努力することが大切である。
そしてもう一つは、身近なところから教えを実行するということだ。どれだけ書物でをやの心を求めても、教理を学んでも、それを身に行わなければ、絵に描いた餅ということになりかねない。何かの行事のときだけ思い起こして行動するということに留まらず、日々の暮らしの中での教えの実行を心がけることが大事だ。
をやの心、すなわち親神様・教祖の思召を求め、日々教えを実行する努力を重ねることは、ひながたをたどることに通じると申しても過言ではない。
「おさしづ」に「どのような道も皆々五十年の間の道を手本にしてくれねばならんで」(明治20年陰暦5月)とお示しいただくように、忙しいときも、うれしいときも、喜べないときも、どんなときでも教祖の道を手本に考え、行動するお互いでありたいと思う。
産み育ての徳分生かして
次の時代へ信仰をつなぎ
教祖のひながたをたどることは、何も年祭の前の3年だけ意識すれば良いのではなく、私たちが常に心に置いて努めさせていただきたい態度である。140年祭の日にも申したように、私たちが目指す陽気ぐらしの世界への道のりは、まだまだ遠いのである。陽気ぐらしの実現に向かって、少しでも早くたどり着こうと思うなら、親神様・教祖の思召を心に治めて実行する人が増えていかなければならない。そして、歩む方向を誤らないように、次の時代、次の時代へと、間違いのない信仰をつないでいかなければならない。
そのために、お互いがいま成すべき役割をしっかりと果たしていくということが必要である。陽気ぐらしへのこの道を通ろうとする人、親神様・教祖の教えを信じる人を育てることは、先んじてこの道を歩む者皆が担う役割である。
なかでも、人を育て導くということについては、女性の役割が非常に大事であると思う。一般的に、子供には父親と母親がいるのである。我が子を育てるに当たって、両親が担う責任は、どちらが大きいということはないだろう。二人で心を合わせ、協力して我が子を育てることが基本だと思う。
しかしながら子育てには、父親には父親の、母親には母親の、それぞれが担う役割があるように思えてならない。お互いが担っている役割を自覚し、責任を持ってつとめることが大切だが、我が子を育てるうえにおいても、また人を育てるうえにおいても、産み育ての徳分を与えていただいている女性が担っている役割は、とても重いものがあると思う。
この道がこれからも先長く続いて、末代にかけて陽気ぐらしへの歩みを進めるためには、皆さんの力が欠かせない。皆さん自身が信仰者としての歩みを進める中で、自らが道を求める姿勢を忘れることなく、さらには女性としての徳分を生かして、多くの道の子を育て導き、次の代へ、次の代へと、この教えを間違いなくつないでもらいたい。
教祖140年祭は終わったが、私たちが道を歩む日々が終わったわけではない。ひながたをたどる必要がなくなったわけでもない。ひながたをたどる努力は、弛まずに続けていきたい。
いま、一つの節目のときが終わったこの旬に、年祭に向かっての自らの通り方を振り返り、改めるべきところは改め、生かすべきところは生かして、仕切り直して新たな気持ちで歩み出してくれるよう、心よりお願いしたい。









