厳寒に御苦労を偲ぶ 「倍の力」を示されるとき – 逸話の季
2月になりました。今シーズンは暖冬だと思っていたのに、ここに来て、厳しい寒さや大雪が続いています。
しかし、厳寒の中にも春の兆しは見られます。雪をはらった木の枝の先には、もう新芽が膨らみかけていました。朝日の昇る時間は少しずつ早まっています。先の見えないパンデミックや戦争報道にも、早く雪解けの兆しが現れてほしいものです。
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明治16年2月10日(陰暦正月3日)、諸井国三郎が初めておぢばへ帰ったとき、教祖は、ご自分の手首を握らせたうえで、諸井の手を握って両方の手と手を掴み合わせ、「しっかり力を入れて握りや」と仰せになりました。
国三郎が一生懸命に力を入れて握ると、力を入れれば入れるほど自分の手が痛くなります。教祖は「もっと力はないのかえ」と仰せになりますが、力を出すほど自分の手が痛くなるので、「恐れ入りました」と申し上げると、教祖は手の力をおゆるめになり、「それきり、力は出ないのかえ。神の方には倍の力や」と仰せられました。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』「一一八 神の方には」
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逸話篇には、初めて教祖のもとを訪れた人と教祖が「力くらべ」をする逸話が多く収載されています。こうしたご行動の背景にあるのは、やはり教祖が「月日のやしろ」であることを人々に実感させ、親神様の存在とお働きの証拠を示すことだったのではないでしょうか。
「力だめし」を促された人は、精いっぱい力を加えますが、いつも「倍の力」を返されます。人間の智慧や力の限界と、人智を超えた世界の真実を伝える「月日のやしろ」の立場を実感できるように、教祖は人々を導かれたのでしょう。
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とはいえ、教祖が「倍の力」を示されるのは、こちらが力を出しきったときです。現在の自分は、親神様のご守護とお働きを切実に感じられるほど、全力を出しきって事に当たっているでしょうか。雪の下で春を待ちわびる植物は、じっと旬を待っているだけではありません。地表には現れない根を、地中深く広げています。
教祖140年祭に向かうこの旬に、もう一度、自らの信心のありようを見直したいものです。
■文=岡田正彦