生成AIをめぐる一思案 – 視点
2023・6/7号を見る
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「ChatGPT」と呼ばれる対話型AI(人工知能)が世界で注目を集めている。文章で問いかけると、ネット上の膨大なデータを駆使し、瞬時に自然な文章で回答する「生成AI」の一つである。
多方面での活用に期待が高まる一方で、その情報の正確さはもとより、データの集中や監視、教育や雇用に与える“負の影響”などを憂慮する声も高まっている。4月に行われたG7デジタル・技術相会合、また先月、広島で行われたG7サミット(首脳会議)では、国際的なルールづくりに向け、「信頼できるAI」「責任あるAI」などをスローガンに、各国が連携することが確認された。
要するに根本的な課題は、人間がAIをいかに効果的に運用し、かつ制御できるかという「ガバナンス」(統制)の仕方にある。
だが、昨今の生成AIの進歩はあまりに速く、実効性のあるルールづくりが果たしてどこまで可能なのか、実のところ誰にも分からない。
「信頼できるAI」や「責任あるAI」といった極めて漠たる、そして“あまりに人間的”な表現が用いられていることは、皮肉にも、AIに対する私たち人間の、現時点での立ち位置を浮かび上がらせる。つまり人間は、一方ではAIによって制御されることを警戒しつつも、他方では、あくまでもそれを主体的かつ“人間的”に制御することを望んでいるのだ。
視点を変えれば、いま私たちは、AIによって「人間とは何か」、さらには「何であり得るのか」という問いを突きつけられている、とも言えるのではないか。
本教では、「六千年は智慧の仕込み」(『天理教教典』第三章「元の理」)と教えられるように、知恵とは、親神の守護によって人間に与えられたものとされる。そして、知恵の本来の目的は、よろづいさいの真実、すなわち「元の理」を知り、陽気ぐらしをすることにある、と教えられる。
「人間」の境界をも溶解させかねない“あまりに人間的”な生成AIが席巻するこの時代に、「人間とは何か」、また「何であり得るのか」という問いを、新たな眼差しで「元の理」に訊ねてみたい。
(島田)