明治7年から150年の節目に – 視点
2024・1/17号を見る
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今年は、明治7(1874)年から数えて150年目に当たる。この年は、教祖の道すがらを考えるうえで非常に大切である。
『稿本天理教教祖伝』を繙くと、まず「つとめ」のうえで、同年陰暦5月5日、教祖は前川家へかぐら面の受け取りに赴かれた。以来、おやしきでは賑やかに本づとめが勤められ、毎日毎夜つとめの後、お手振りの稽古が行われた。
そして「布教伝道」のうえでも、
みへるのもなにの事やらしれまいな 高い山からをふくハんのみち
このみちをつけよふとてにしこしらへ そばなるものハなにもしらすに
(おふでさき五号57・58)
と宣言され、自ら高山布教に取り掛かられた。具体的には、同年秋の「大和神社のふし」「山村御殿のふし」が、それに当たる。
これらの事件を契機に、本教に対する公権力による迫害干渉が始まったが、このことは、見方を変えれば、教祖が「あかいところ」へ出られて積極的に教えを説かれるようになった最初ということもできる。「親神にとっては世界中は皆我が子、一列を一人も余さず救けたいのや」との教祖のお言葉に、お心が集約されている。
山村御殿のふしの後、教祖は初めて赤衣を召され、「おふでさき」の中でこれまで用いられた「神」の文字を「月日」と置き換えて、一段と親神様の理を明かされた。
さらに、数人の熱心な信者に初めて身上たすけのおさづけを渡された。
数々のふしを通して、人々の信仰は高められ、教祖のなさることに間違いはないとの信念が固まっていった。たすけを取り次ぐ段階へと、当時の人々の信仰が大きく展開していったのである。
かつて中山善衞・三代真柱様は、明治7年は「たすけ一条の道が表へ現れ始めてよりだんだん発展して、教祖から仕込みを受けられた人々が次第に成人をして、教祖の手足となってたすけ一条の道を歩み始めたという姿が現れた年である」と、その意義を強調されたことがある。
年祭活動2年目の本年も、各地で「ようぼく一斉活動日」が開催される。お互い「たすけ一条」を胸に、明るい心で日々をつとめさせていただこう。(山澤)