立教187年春季大祭 中田表統領神殿講話(要旨)
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年祭活動に一層拍車を掛け 真実のにをいがけ・おたすけへ
初めに、元日の能登半島地震によって被害に遭われた方々のご苦難やご心労に、心からお見舞いを申し上げる。復興への道のりは緒に就いたばかりだが、親神様のご守護、教祖のお導きを頂いて立ち上がってくださることを心から念じる次第である。
先人の心定め同様の固い決意をもって
今日は、教祖が定命を25年お縮めになって現身をおかくしになった日を元一日とする春の大祭である。
教祖は現身をおかくしになることによって、私たちにいろいろなことをお仕込みくださった。なかでも大切なことの一つが、「つとめとさづけによるたすけ一条の実践」である。
おつとめについては、とりわけ現身をおかくしになるまでの数十日間、先人との問答の中で、その大切さを厳しくお仕込みくださった。そして、先人たちの心がいよいよ定まり、神一条の強い決意で勤められたその日のおつとめの音を穏やかにお聞きになって、静かに現身をかくされた。
教祖は、初代真柱様はじめ先人たちの神一条の真実心を確かにお受け取りくださり、その先の道を楽しみになされていたのではないか。その先の道とは、いま道を通っている私たちの歩みも含まれているのである。
春の大祭を勤め、教祖年祭への三年千日を仕切ってたすけ一条に邁進するに当たり、先人たちの心定め同様の固い決意をもって、「諭達第四号」に示される真柱様の思召に心を合わせて歩ませていただきたい。
教祖のひながたはようぼくの人生の心得
この三年千日では、「教祖のひながたをたどる」ということを具体的に思案し、行動に移していくことを強調している。
昨年の秋の大祭での真柱様のお言葉を受けて、大切な点にあらためて気づかせていただいた。ひながたを一つひとつの思案の仕方や採るべき行動の判断の手本とする前に、教祖の50年のひながたを、まず広い観点で受けとめなければ、大切なことを見誤る可能性があるということだ。
立教以来、何も知らない子供たちに元の理の真実を明かし、つとめとさづけによるたすけ一条の道を教え、導くためには、それに必要な50年間の順序があった。そのなか、どんなときも諦めることなく丹精し続けられた教祖のご姿勢は、たすけ一条を実践する私たちが決して忘れてはならないひながたである。
また、ひながたは「手本」という意味に留まらず、ようぼくは教祖のひながたから、この道を通る励みや勇気を与えていただけると思う。私たちは道なき道を歩むのではない。どんな中もひながたがある。それは、私たちに「節を乗り越える力」をも与えてくれる。その意味で、ひながたはようぼくにとって、人生の心得そのものでもあると思う。
三年千日そのものが年祭活動の本番
年の初めから、背筋を伸ばさずにはいられないお仕込みを頂いた。
「おふでさき」に、地震などの自然災害は、親神様の残念や立腹の現れだとお示しいただく。このたびの節は、三年千日2年目の初日ということから考えても、この道を通る者すべてが真摯に〝わが事〟と受けとめたい。心を引き締めて、親神様の残念、立腹との思召に思案を深め、いまは思うように動けない被災地の教友の分まで、これからの年祭活動に一層拍車を掛けて、親神様のご守護を頂戴できるようにつとめさせていただきたい。
直接の救援活動ができなくても、私たちには日々おつとめでお願いするという手だてがある。いまは現地に行けないから、おつとめで願うことしかできないのではない。親神様にお願いができることこそが、私たちの誇りであり、有り難さなのだ。
年頭あいさつの中で、真柱様が念を押されたように、年祭当日は仕切りとしての時間的な目標であり、その日に何かをするのが目標ではない。三年千日そのものが年祭活動の本番である。元日の大節を私たちへのお急き込みと受けとめ、真実のにをいがけ・おたすけに励んで、親神様のご守護をお見せいただけるよう勇んでつとめさせていただこう。