道の名折れにならぬよう 苦しい道中も先を明るく 田川とみ(上)- おたすけに生きた女性
2026・5/27号を見る
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不自由な中も先を楽しみに、内助の功を尽くしたとみ。子供を連れてのおたすけは、こうもり傘におしめをぶら下げ、乾かしては次々回ったという
今回紹介するのは、田川とみです。明治9(1876)年5月12日、兵庫県姫路市坊主町に住む父・平澤源八郎、母・よしの長女として誕生しました。父に導かれて信仰し、同31年、生野大教会初代会長・田川寅吉と結婚して、4男2女を授かります。会長夫人として寅吉を助け、おたすけに励みつつ、教会に寄り来る人々を教え導きました。
熱心な姿が目に留まり
平澤家は代々姫路藩士として仕え、藤原鎌足の末裔に当たることから、毎年、鎌足を祀る大和の談山神社に参拝するのが慣例でした。明治21年、父・源八郎は談山神社に参拝したのち、泊まった宿屋で人に勧められ、初めておぢばへ足を運びます。辻忠作から長時間にわたり話を聞かせてもらい、平澤家では代々男の子が夭折するので、その理由を尋ねました。忠作の諭しにより、家のいんねんを深く悟った源八郎は、親神様にもたれ、いんねんを切り替える道に入る決心をします。とみは父に導かれ、おてふりや三曲の鳴物を習得しました。
同29年7月、源八郎が重患に陥り、出直します。その後、とみは一家を支えようと東京へ出て綿商を始め、母や妹弟を引き取りました。東京でも道を求め、大きな教会に参拝しますが、おてふりや鳴物に出させてもらえず物足りなく思っていました。そんなある日、近隣で太鼓の音を耳にし、八木部内の飯倉布教所を訪ねます。以来、とみは所長の村田辰造を頼って熱心に信仰するようになり、その姿が、上京中、布教所に立ち寄った永尾楢治郎の目に留まりました。
同31年陰暦5月中旬、とみはおぢばへ帰り、初席を運びました。おぢばに滞在中、父の遺骨の埋葬について相談するため、東京の信者を監督していた楢治郎を訪ねたところ、妻の永尾よしゑから縁付くよう勧められ、その世話取りで田川寅吉との縁談が持ち上がります。
夫・田川寅吉は明治3年、兵庫県朝来郡梁瀬村に生まれました。寅吉の父・徳右衛門は病弱で、寅吉は信心深い祖父に連れられて寺社に参詣し、父の全快を祈ったといいます。
同19年、徳右衛門が48歳で亡くなると、寅吉は父に代わって煩わしい村々との交際や慣れない農事に励みました。しかし、母は激烈な腹痛の持病を抱え、自身も胃腸や脚気を患い、先々不安な一家の運命を思うと、ただ鬱々として耐えがたい苦しみの中にありました。
同年3月、寅吉は同郷の衣川弥兵衛からこの道の話を聞いて感激し、入信します。弥兵衛は毎晩村人に、ぢばの理、かしもの・かりものの理、いんねんの理、教祖の道すがらなどを説いて聞かせました。そこに寅吉の姿がない日はなく、聞けば聞くほど心は開け、悩みは晴れて、この道に邁進せずにはいられないのでした。その後、寅吉は村内26戸の人々に信仰を勧め、天地組七番講社を結成し、推されてその講元となります。こうして生野大教会の端緒は開かれ、同25年8月、朝来郡生野町口銀谷に生野支教会が設立されました。


同29年、内務省訓令が発令され、翌年に安堵事件が起こると、寅吉は上級教会の世話係として教会の整理員に推され、各地へ巡教する一方、生野部内でも相次いで事情が起こり、信者の丹精に東奔西走します。教会には衣川常助夫婦が常に詰めていましたが、寅吉は妻なく、不自由な生活をしていました。
そうしたなか、同31年6月27日、とみは22歳で寅吉と結婚式を挙げます。

負けじ魂と粘り強さを発揮し
式後、信者たちのお祝いを受けていたときのことです。とみが箱火鉢に差した火箸の上に手を置いて話をしていると、ある信者から「奥さん、火鉢の底が抜けますがな」と怒鳴られました。実は、火鉢をはじめ大方の道具は信者からの借り物だったのです。返し終えた後に残ったのは文机、桑の本棚、一人分の食器だけだったといいます。
教会での新婚生活は簡素で、無一物にも等しいものでした。町内に住む会計係が一切を切り盛りしていたので、買いたい物も思うに任せず、砂糖、醤油なども使い過ぎだと言われ、窮屈な所帯をしなければなりませんでした。とみは当時を振り返って、「自分の茶碗を買いたいと言っては叱られ、盥が欲しいと言っては退けられて、教会とはかくも不自由なところか、まったく驚いたよ」「教祖殿の前の部屋に、古い小さな机が置かれ、その前に神様のお言葉が貼り付けてあった。お父さんは、いつも留守がちで、留守の時にしっかり心に覚えておけと言うて出て行かれた。教祖の前でそれを読み覚えながら、つい淋しくなって泣いた日もあった」と述懐しています。
当時の生野支教会は荒道時代で、寅吉はわが身わが家のことを顧みず、神一条、上級教会を一筋に思って通っていました。姫路や東京で母や妹弟と共に、にぎやかに暮らしていたとみの生活は一変しますが、生来の負けじ魂と粘り強さを発揮し、永尾よしゑから頂いた「頭は櫛巻、食事は腹のひもじゅうないだけ、着物は夏物が冬物、冬物が夏物とし、自分のことには金使わぬよう、教会を大事に、役員を大事に、信徒を育てるのや」との教示を胸に、困難な中も先を楽しみに通りました。
ある日、炊事場で婦人たちと食事の準備をしていると、醤油屋の御用聞きがやって来ました。毎日塩味ばかりで過ごしている折でしたが、とみは樽を動かしてタポンタポンと音をさせ、「まだまだたくさんありますから」と笑顔で答えて帰しました。実は音の正体は水で、醤油は一滴もなかったのですが、どんな道中も明るく通り、道の名折れにならないよう心を配っていたことがうかがえます。
ひながたの道を心に
とみは明治32年3月11日、おさづけの理を拝戴します。その翌年ごろのある冬の日、隣村の人からお産のおたすけを頼まれました。とみは乳飲み子を背負って、すぐに出発しました。峠道では、雪が下から吹き上げ、傘も差せないほどでしたが、赤いネルの腰巻きを外して背中の子を覆い、凍てつく夜道を急ぎました。難産をおたすけいただいた後、ふと気がつくと、とみの足腰は凍傷で腫れ上がっていたといいます。
同33年、生野支教会婦人部を結成し、会員を集めて、教理の勉強、特に教祖ひながたの道を素直に辿ることについて練り合いました。とみはひながたの道を取り次ぐとき、その一つひとつが胸に迫るのか、いつも言葉を詰まらせました。しかし、それを聞く人々は、その無言の中にも教祖の親心を汲み取らせていただけたといいます。部内の会長夫人には、それぞれの教会の成り立ちを話して聞かせ、何事も頭で知るのではなく、実地に行って体得するように常に仕込みました。そうして婦人たちが成人できるように心を砕いたのです。
こうして、とみは苦しい道中も先を明るく通るよう努めつつ、ひながたの道を心に置いて、人々を教え導きました。ところがこの後、思いがけない難局が待っています。次回は、寅吉ととみがどのように心を定め、乗り越えていったかを見ていきたいと思います。
(つづく)
文・松山常教(天理教校本科実践課程講師)











