風が告げる季節の移ろい 人生の旬々にお言葉と向き合う – 逸話の季
2023・9/6を見る
【AI音声対象記事】
スタンダードプランで視聴できます。

立秋はすでに過ぎ去り、暦のうえでは秋になりました。もうとっくに「暑中」ではなく「残暑」の時季ですが、なかなか猛暑の先は見えません。毎日の変わらぬ親神様のご守護に感謝し、むしろ厳しい日差しに感謝する気持ちで暮らしたいのですが、そうした心も折れそうな日々が続いています。どうか皆さま、熱中症にはお気をつけください。
*
明治15(1882)年9月中旬(陰暦8月上旬)、冨田伝次郎は、長男・米太郎の胃病が再発して命も危ないというときに、不思議なたすけを頂き、そのお礼に初めておぢば帰りをしました。
教祖は「商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」というお言葉とともに、「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで」と仰せられました。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』「一〇四 信心はな」
*
連綿と語り伝えられてきた教祖のお言葉が、とても印象的な逸話の一つです。特に「神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや」というお言葉は、極めてシンプルな表現で信心の本質を伝えています。
初めて『逸話篇』を拝読した日から、その意味を何度も繰り返し考えてきました。しかしながら、ある程度の年齢を重ねてからは、このお言葉の印象が若いころと少し変わってきたような気がします。
*
以前は、子供の側から親に感謝する気持ちだけを考えていましたが、自分自身が子供を育てる立場になって、だんだん親の側の気持ちにも思いを巡らせるようになりました。さらに、子供たちが大人の年齢になると、人間の親子関係は、親から子への一方的なつながりだけではないことを実感します。
これまで一人のようぼくとして子供たちを育ててきた私は、彼らに信仰の糧となるような姿を示すことができていたでしょうか。人生の段階によって、同じお言葉から受ける印象は大きく変わります。
移り変わる人生で、その旬々にお言葉と真摯に向き合う姿勢が、やはり大切なのでしょう。
文=岡田正彦