袖振り合うも – 成人へのビジョン 47
教会の月次祭でのこと。妻と共にてをどりを勤めていたところ、妻のおつとめ衣の袖が私に触れました。「妻が近づいてきたのかな」と思い、前の八足の位置を確認すると、妻はずれることなく、真っ直ぐに正面を見つめていました。寄っていたのは私だったのです。「ああ、私たちらしいな」と、ふと心が軽くなりました。そしてすぐ、正しい位置へと身体を戻しました。
昔の人は「袖振り合うも他生の縁」といいました。道で人と袖を触れ合うような些細なことでも前世からの因縁によるものだ、といった意味の諺です。
お道でも、夫婦となるのはいんねんがあってのことと教えられます。また、「親が子となり、子が親となり」とのお言葉が示すように、親子となるのもいんねんがあってのことです。夫婦と親子、縦横に広がる人と人とが織りなす幾重の結びつき。その起点をなすのが、それぞれのいんねんなのかもしれません。
今の世しか分からない私たちには知る由もないことですが、目に見える世界のほかに、目に見えない魂の遍歴があるということ。そうしたそれぞれの魂が、「現在」において交差している。私たちはこの信仰によって、「自分」という視点、尺度を超えた深い意味を、出会いそのものの中に感じ取っていくことができるのです。
そうした信仰の世界では、「恩の報じ合い」という言葉を耳にすることがあります。なんて素敵な世界だろう、と私は思います。前生でどのような縁があったのかは分かりませんが、「恩の報じ合い」という言葉には、損得勘定を超えた豊かな響きを感じます。
現代では着物を着る場面は稀です。だから「袖が触れ合う」ことは、まずありません。「他生の縁」を意識することも少なくなり、目に見える今、この現実こそがすべてだと考える人もいるのかもしれません。それは一見合理的ですが、とてもフラットな世界でもあります。
この信仰が教えるいんねんの教理は、そうした現実に、魂という遥かな奥行きをもたらすものです。豊かさ、といってもいいかもしれません。出会いはすべて、親神様が用意してくださった陽気ぐらしへの道――そう思って生きるとき、眼の前の景色は、また違った表情を見せます。
そんな思いを巡らせては、今日もまた、ずれた位置を少し戻す私です。
可児義孝・河西分教会長








