武士道という精神 – 日本史コンシェルジュ
2023・6/21号を見る
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「願わくば、われ、太平洋の橋とならん」
これは、東京大学の入試の面接で、英語を学ぶ理由について問われた際の新渡戸稲造の言葉です。その言葉通り、彼は国際連盟の初代事務次長として国際紛争の調停や人種差別の撤廃に尽力し、政治的対立を乗り越え、各国が協力し合い平和を守ることを訴えて共感を呼ぶなど、世界と日本の懸け橋となりました。
稲造は札幌農学校から東大へ進み、アメリカ・ドイツに留学。帰国後は母校・札幌農学校の教授となりましたが、三十代半ばで体調を崩し、療養生活を余儀なくされます。療養先の米国西海岸、モントレーのホテルで眼下に太平洋を眺めながら、一気に書き上げたのが『武士道』でした。
執筆のきっかけは、ベルギーの友人との会話にありました。日本では学校で宗教は教えないことが話題となり、「宗教がないなら、どうやって道徳を教えるのか」と尋ねる彼に、稲造は即答できなかったのです。その後、友人の問いへの答えとして『武士道』を英文で執筆、海外で大反響を呼びました。
米国大統領セオドア・ルーズベルトも愛読者の一人で、徹夜で読破したと伝わっています。そして日本贔屓になったルーズベルトの協力で、日露戦争の早期講和が実現し、日本は独立を守り続けることができたのです。まさに日本精神を世界に伝える”懸け橋”、それが『武士道』でした。
療養を終えた稲造は、日本の統治下にあった台湾で農業を指導、糖業発展の礎を築きます。台湾の李登輝(りとうき)元総統は、京都大学で農業経済学を学びましたが、この学問分野に生涯を捧げようと決意したのは、稲造の哲学・理念やその全人格に、読書と思索を通じて強い影響を受けたからだそうです。
さらに、稲造が『武士道』の中で強調した「信」「義」「仁」といった徳目は、彼が台湾総統となり新しい国づくりを進める際に、心の支えになったということです。
東日本大震災が起こったとき、迅速に救助の手を差し伸べてくれたのも、世界一の義援金を贈ってくれたのも台湾でした。「新渡戸先生の故郷・岩手県を放ってはおけない」との思いから、支援してくださった方もいたそうです。
武士道という美しく尊い花を咲かせ、第一次世界大戦後のパリ講和会議において人種差別を無くそうと声を上げた日本。先人から託された志のバトンを、大切に継承していきたいですね。