水を澄まして待って居る – 視点
2023・8/2号を見る
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まことに不思議なその話の発端は、今から50年近くも前のこと。この道の青年が国連本部で同僚であったアメリカ人と別れる際に、英語版の『おふでさき』をプレゼントした。彼はそれをアメリカの自宅の本棚に置いていた。ある日、彼の友人の夫婦が訪ねてきたときに、偶然『おふでさき』を見つけ、それを読んだ友人は「私が探していたのはこれだ」と感激し、間もなくおぢばへ帰り、教人となった。実はその夫婦は、自分たちが納得できる宗教を求めて世界を旅していたという。
その後、サンフランシスコで布教専従となってからは、弁護士、医師、キャビンアテンダントなど白人から白人へと道が弘がり、今ではようぼく23人を含む50余人が、ご恩報じの熱心な信仰をつないでいる。ただ、彼らには特別に信仰の指導を受けた形跡がなく、すべて1冊のおふでさきから始まった道といっていい。筆者には、目には見えない何か「伏せ込まれた理」が働いているとしか思えない不思議な話である。
教祖10年祭に向かう三年千日の歩み始めの刻限おさしづに、次のようにある。「多くの中に澄んで/\早く汲みに来んかいなと、水を澄まして待って居る。これは千日の間に出来たのや。(中略)わしがにをい掛けた、これは俺が弘めたのや、と言う。これも一つの理なれど、待って居るから一つの理も伝わる」(明治25年6月4日)。おおよその解釈を試みるならば、「人々の心を澄まして、水に例えるならば、澄んだ水があるので、早くその水を汲みに来ないかと、神が先回りをして水を澄まして待っているのである。これは三年千日の旬によって出来たことである。(中略)この人は私がにをいを掛けたとか、ここは俺が道を弘めたとか言う者がある。確かにそれも一理あるのだが、神が先回りをして待っているからこそ、こちらの真実が伝わるのである」ということだろう。
年祭の旬なればこそ、たすけ一条のさまざまな努力とともに、親神様にお働きいただけるよう、教えの理によって心を澄ます努力も忘れてはならないと思うのである。
(橋本)