ファンファーレはいまも – 成人へのビジョン
2023・8/2号を見る
【AI音声対象記事】
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「おふでさき」全1711首は、「これをはな一れつ心しやんたのむで」の一首をもって筆が擱かれています。「みかぐらうた」は、「このたびいちれつに だいくのにんもそろひきた」を最後に十二下りを終えます。「おさしづ」は、「篤と心を鎮め。皆々心勇んでくれ/\」というお言葉を最後に、本席様が出直され、立教以来70年にわたる啓示の締めくくりを迎えます。
これら三原典のいずれの結びにも、その先に未来へ開かれたものが感じられます。新しい予感に満ちている。終わりで終わらない。完結しないのです。それはそのまま新しいスタートへとつながっています。
私はこの終わり方が好きです。もちろん、原典が好き嫌いの対象ではないことは承知しています。それは原典に臨む正しい態度とはいえないかもしれません。でもやはり、この気持ちは「好き」というほかないのです。なんだか、とても気持ちがいい。清々しいのです。それは船出を祝うファンファーレのように私の心を鼓舞し、勇気づけてくれます。私たちは、そのようにして神様から送り出されている。私はそこに、子である人間へ寄せるをやの期待を感じます。
私は「元の理の世界を生きている」と思うことがあります。『天理教教典』第三章「元の理」の冒頭には「人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」とあります。その後、人智の及ばぬ親神様のお働きによって人間が創造されるわけですが、その時点の遙か未来で――いや、未来という時間軸を用いていいのかさえ分からない至大な隔たりを超えて、創造時に教えられた十全の守護を、現在この全身に頂いて生きている、という感覚です。それは「元の理」と地続きの現在。そのとき「元初まりの話」は創造説話であると同時に、私が「陽気ぐらしをする」という現在進行形の物語になります。
三原典の締めくくりは新しい始まりを予期させます。私たちは親神様から「陽気ぐらし」を託されている。大工が揃いきたなら、いよいよ陽気世界のふしんが始まります。それは心のきりなしふしんでもあるのです。
「一れつ心思案頼む」「皆々心勇んでくれ」。ファンファーレは、いまも鳴り響いています。
可児義孝