自らの姿を見る「離見の見」- 視点
2024・6/12号を見る
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自転車の交通違反に反則金を納付させる「青切符」による取り締まりの導入を盛り込んだ改正道路交通法が可決・成立した。信号無視や携帯電話を使用しながらの運転などが取り締まられることになる。
その背景には、近年の自転車事故の増加がある。一昨年、自転車が関係する事故で死亡や重傷になった7,107件のうち、5,201件で自転車側に交通違反が確認されたという。
イヤホンを付けスマートフォンを手に背後を気にせず道を横切ったり、猛スピードで歩道を走ったりする自転車に、ヒヤリとした経験を持つ人は多いだろう。そんな運転者の心理として他者の軽視、自己中心、過信などさまざま挙げられるが、社会の中で自らを律するためには、自分を客観視する感覚も必要ではないか。
司馬遼太郎の紀行随想『街道をゆく』の挿絵画家の安野光雅氏は、眼前の風景を描くとき、頭の中で空中に舞い上がると語る。地上でスケッチをしながら眼下を見る俯瞰の視点である。それがないと、眼前の山や林や家々の後ろにある空気は描けないという。
ある父子の挿話を思い出す。満月の夜、父親がわが子をおんぶして月明かりの道を歩いていた。すると、道沿いのおいしそうに赤く熟した柿につられて、父親が思わず手を伸ばした。柿をもぎ取ろうとしたそのとき、背中からわが子の声が飛んだ。「お父ちゃん、お月さまがみているよ」
世阿弥が説いた能の境地に「離見の見」という言葉がある。目は前を見て、心を後ろに置けという。客席から見た姿は「離見」、自分の目で見る姿は「我見」。自分の後ろ姿がどのようであるかが分からなければ、姿の拙さにも気がつかず、真に自らの姿を見ることはできないと説く。
空中から自分を見てみる。おたすけをする自分、たすけられている自分。いずれも、わが姿である。「教祖からは、いまの自分がどう見えているのだろうか」。教祖年祭へ向かう旬、自らの成人への歩みを思うとき、そんな離見の見も大事かもしれない。
(加藤)