世界の融和へ向かう契機に – 視点
2026・6/10号を見る
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「FIFAワールドカップ2026」が6月11日、アメリカ、カナダ、メキシコの北中米3カ国による共催のもと開幕する。世界最高峰の選手たちが国の威信をかけてしのぎを削る4年に一度の祭典に、世界中のサッカーファンが心躍らせていることだろう。
今大会から参加国枠は32カ国から48カ国へ、試合数も64から104へと大幅に拡大された。国際サッカー連盟(FIFA)はその名目として、サッカー競技の普及とレベルの底上げを掲げているが、一方で、放映権料をはじめとする収益拡大を狙う商業主義の加速を懸念する声もある。さまざまな思惑が錯綜する大会ではあるものの、本大会への出場が困難とされてきた国々にも門戸が広がったことは喜ばしい。
ところが今年4月、イラン情勢の悪化を受け、イラン代表の本大会出場を巡り、ヨーロッパ予選で敗退したイタリア代表を代替出場させる案が一部で報じられた。これに対してイタリア政権の有力者はこぞって不快感を示し、「出場権はピッチで勝ち取るべきもの」と一蹴した。また、FIFAのジャンニ・インファンティーノ会長も、イランの出場をあらためて認めたうえで、「われわれには世界を団結させる機会がある」と、サッカーを通じた平和の重要性を強調した。
こうした発言には、過去への反省も込められていたのかもしれない。1934年の第2回大会では、イタリアのファシスト党党首ベニート・ムッソリーニが、国威発揚の格好の機会として自国開催を推し進め、一説にはイタリア戦のレフェリー選任にも介入したとされる。自国勝利のために手段を選ばなかったイタリアは、結果として開催国優勝を果たした。しかし、公平性を欠いた試合の末に残るのは虚しさだけだろう。スポーツの政治利用は決してあってはならない。
国際大会の意義は、国や人種・民族の歴史的な相克を超え、一つのルールのもとで力を尽くし、互いの健闘を称え合うところにあるはずだ。「せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや」(「おふでさき」十三号43)。世界の分断と対立が深まる昨今、今大会が何らかの融和へ向かう契機となることを願うとともに、一れつきょうだいへのまなざしをもって“サムライブルー”の躍動を見守りたい。
(春野)








