暮らしに教えを生かしつつ 生来の実行力で人を育て 田川とみ(下)- おたすけに生きた女性
2026・6/3号を見る
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とみの暮らしぶりは積極性と合理性にあふれていた。練習したての自転車を駆って部内や信者宅を回るなど、その活動ぶりは近在でも有名だったという

親孝心の道を通れば
明治36(1903)年11月、寅吉は軍の召集を受け、姫路師団に入隊します。同38年、寅吉が休日に上級教会へ参拝すると、諸道具一切が封印されていました。聞けば、負債が膨らみ、教会を差し押さえられているとのことでした。
寅吉は「入営中ながら、田川ありますうちは借金全部引き受けさせていただきます」と固く決心しました。とみや部内教会にも心定めの向きを伝え、「成る中からするは誰もする。成らぬ中、できぬ中からする理を天の親様も、また、上級もお喜びくださるのである。それでこそ前生悪いんねんも果てるのや。今こそ孝行の尽くし時である」と説くのでした。
留守を預かるとみは、おぢばへ帰り、永尾よしゑに相談します。よしゑは、教祖から「よしゑさんよ。おまえさんには今はなあ。えらい、つらいことばかりでなあ。えらいことやろうがなあ。えらい目しときや。先ではなあ、着る物に不自由なし、住む家に不自由なし、食べるものに不自由ない暮らしができるで。今日はならん仕事や、えらい仕事しときや」とお聞かせいただいた、と話してくれました。そして、「親へ孝行を尽くさしていただくことが万劫末代の種となる」と諭され、とみは固い信念で難局を乗り切る覚悟を決めます。上級教会へ赴き、生野の教会を売り払ってでも、なんとかさせていただきたいとの思いを伝えると、会長夫妻は涙を流して大喜びしました。
ある日、三男・豊明がジフテリアに罹り重篤に陥ります。知らせを受けて戻った寅吉は、瀕死の愛児を前に、とみや役員と共に相談し、教会の敷地建物を売り払って御用に立てるとの心を定めました。
その後、とみが子供を抱え、おたすけや教会の修理に昼夜なく励むなか、豊明は一命を取り留め、不思議なたすけが相次ぎました。後年「親孝心の道を通れば、不思議、自由の理が面白いように現れ、苦しみは楽しみの理に現れた」と語っています。
教会売却の会議中、上級教会の会長が突然の腹痛に襲われます。売却を中止せよとの神意と悟って、お願いすると全快しました。この機に生野の部内一同で協議し、教会の土地、建物を買うつもりで、負債を引き受けました。
やがて寅吉が帰還すると、次第に難局を切り抜けました。留守を任されたとみは、並々ならぬ苦難の道を歩みましたが、信仰的に大きく飛躍する契機となったのです。
生活は合理的、質素かつ厳格に
こうしたなか、小学生の長男・虎雄が、子供心にお金があれば親が喜ぶと考えたのでしょう。活動写真(無声映画)の宣伝を手伝って得た駄賃を握りしめ、「お母さん、お金もうけてきたよ」と言って駆け込んできました。この姿を見たとみは、大粒の涙をこぼし、虎雄を教祖の前へと連れて行き、「教祖、子供にこんな心遣いをさせまして誠に申し訳ございません」と長い間、お詫び申し上げました。それから、虎雄に道の次第や教祖の道すがらを聞かせ、「教会はお金もうけはしなくても神様の御用だけしていれば、神様がお駄賃は下さる。教会は大勢の信者さんが、お金よりも大事な財産やから、ちっとも心配することはいらないのだよ。おまえもしっかり勉強して立派な人になるのやで」と、懇々と諭しました。
とみの生活は普段から合理的で、質素かつ厳格でした。教会の奥様のところへ行けば何でも教えてもらえるというので、教会にはいつも近郷の子供や信者子弟たちが20~30人も寝泊まりしていました。とみは朝早くから、拭き掃除、座敷の掃き方まで手を取って指導し、洗濯や仕立て物はもちろん、お茶、お花、米搗き、漬物の漬け方、味噌作りなどを仕込み、夜は遅くまであんまの手ほどきをしました。夕づとめ後は、翌日の食事の支度をしながら、菜の葉一枚にも親神様のご恩を頂いていることを諭しました。長時間、話を取り次ぐときは、衣類などの解き物をしてその糸を紡ぎ、布を織って座布団に仕立てるなど、日々の暮らしを教えの理に基づいて仕込み、人々を育てました。
あるとき、こんにゃく売りが重そうな荷を担いで教会を訪れました。「初商いですよって負けときます」と、巧みに駆け引きをしてくると、とみは「こんにゃくは皆買ってあげますから、あなたがそれを一日売って歩く時間、神様のお話を聞いてくだされや」と言って、一日中、お話を取り次いだこともあったそうです。
道を広め、理を諭すには、誠に厳しく理に立ち切るとみでしたが、涙もろく情深い人でもありました。寅吉が厳しく仕込んだ後、きっととみが助け船を出すので、皆がたびたびほっとしたといいます。
ぢば一条の信念を貫き通し
とみは、何についても非常に実行力に富んでいました。よいと信じたこと、よいと聞いたことは一応取り入れ、即時断行しました。当時は汽車やバスもなかったので、部内を巡るために自転車に乗る練習をし、冬の雪国には靴が一番であると、袴に編み上げの革靴を履いて颯爽と出かけたといいます。ミシンが便利と聞けば、すぐに備え付けて、衣類や布団を製作する能率を上げ、婦人会の人たちが子供を喜ばせるようにとオルガンを置きました。生涯を通じて、神様、上級教会のこと以外は念頭になかった寅吉に従いつつも、着々と教会の道具、備品の調達を進める度胸も持ち合わせていました。


生野が本部直属の理を頂いてからは、養徳院や託児所に真実を伏せ込みました。昭和9(1934)年、とみは本部婦人に登用され、炊事場、御供所の御用を喜んでつとめました。晩年を穏やかに送り、同26年、おぢばの詰所で出直しました。
寅吉と共に、その生涯を通じて、上級教会の事情をはじめ幾多の困難に直面しましたが、「わしらほど親不孝のいんねん深い者はない。それだけにおぢばに理を伏せ込んでご恩返しをさせていただくのや」「ぢば一つに心を寄せて通るのが道や」と、ぢば一条の信念を貫き通しました。矢面に立つのは寅吉でしたが、共に憂い、励まし、心の支えとなったとみの役割は並大抵ではありませんでした。
とみは、この道で神様にお連れ通りいただいたおかげで今の私があるのだと、その有り難さを胸に、おたすけや道の御用に励みました。自身の子供はもちろん、教会に寄り来る人々が、教祖のひながたの道を身に行って体得できるようにと、自ら日々の暮らしの中で実践しながら、心を砕いて仕込み、育てました。生来の実行力を発揮して教えの理に沿って生きるとともに、多くの人々を教え導き、その生涯を閉じたのです。












