「親ガチャ」と嘆く若者へ – 視点
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ここ数年、「親ガチャ」という言葉を見聞きする。何が当たるか分からないカプセルトイ(ガチャ)のように、どの親のもとに生まれるかは偶然の産物であるにもかかわらず、それによって、その後の人生が決まってしまうという絶望や厭世観を表す流行語だ。もともとは家庭内で虐待された経験を持つ人たちの間で使われていたが、経済的格差の拡大と固定化が進む現実を嘆く若者たちの間で定着した。
こうした宿命論的な絶望感を抱く若者にとって、人生は自分の力で変えられるといった安易な励ましは心に響かない。むしろ、まずは彼らの悩みに耳を傾けることが求められるだろう。
教祖のひながたは、貧に落ち切るところから始まる。それは、施しによって困窮する人をたすけるだけではない。「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」と仰せになったように、悩み苦しむ人をたすけるためには、その人の気持ちを分かろうとすること、親身になって接すること、また心を低くすることが大切である。
そして、長い貧の道中を通られた後に、おつとめの第一節を教えられ、心のほこりを払い、ひたすら親神様にもたれ、ご守護を祈念することを説かれた。
続いて、十二下りのてをどりによって信心の喜びを明かされた。その喜びの最初の発露が一下り目であり、めずらしい肥のさづけを頂戴し、心定めて道を通るならば、いつも豊年満作のご守護が頂けると歌われる。言い換えると、教祖は、食べるに事欠くことが無いような経済的安定をも約束されたのであり、心のほこりを払い、教えに沿った日々を通ることで、必要十分なものが与わることを説かれたと悟れる。
このように思案すると、「親ガチャ」と嘆く若者が周囲にいるならば、まずはその声を聞き、寄り添ったうえで、心一つで人生をより良いものへ切り替える道があることを伝えよう。それが、教祖のひながたをたどることにつながる。
(三濱)