心の目をひらく努力を – 視点
2026・6/3号を見る
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「木を見て森を見ず」ということわざは、小事にとらわれて、大事を見失う譬えであるが、例えば枯れかけている1本の木だけに手入れをして肥を施しても、森全体がその木に及ぼしている影響を見ていないということであろう。現代の社会においても同じ現象があらわになり、孤立する人が増加している。一つのことに心を奪われて、全体を見通すことが難しくなっているのは、SNSやマスメディアが先入観と偏見を助長している影響も大きい。
落語の演目「心眼」は、視覚障害者のマッサージ師が願掛けで視力を取り戻すも、見えた世界の醜さに落胆し、元の目が不自由な状態に戻ることを願う人情噺である。その一節に「目が見えないときはどこへでも行けたが、目が開いたら何が何だかわかりゃしない」というセリフがある。見えることに惑わされて、真理を見失ってしまう。心の目で見ることの大切さを問うている。
ところで、この道を信仰する者の行き先は人生の目的「陽気ぐらし」である。『信心素描――おやさまに導かれた女性』の著者である伊橋幸江氏は「おやさまに導かれたこの道の先人は、おやさまのお言葉や心の目がひらかれたみずからの経験を、いきいきと伝えられています」と、著書の冒頭に記している。ここで述べられている心の目は、神様の思召を知り、話の理を聞き分けて、自身の身の内も世界もすべてが神様の自由自在のご守護であると、心底から分かってこそ開かれるのであろう。
つまり、「大恩忘れて小恩送るような事ではならんで」(おさしづ明治34年2月4日)とのお言葉通り、日常にあっては喉の渇きを潤すコップ1杯の水に神恩感謝の念を持ち、神の守護に「気づく」心構えが欠かせない。神様は人間が陽気ぐらしをするために造られたという元のいんねんに基づき守護されている。銘々、生来潜在的に持ち合わせているそのいんねんを呼び起こすことによって心の目は開かれ、間違いない陽気ぐらしへの道が開かれていく。
現在、ようぼくを取り巻く環境の中で、自身の思案によって、自ら道を通りにくくしているであろう目先のことにとらわれずに、広く長い視野で、次の塚に向けて年限に相応しい成人の姿をもって、この時代を生きたいものである。
(岡本)









